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続・対話随想 №31 [核無き世界をめざして]

  続対話随想31 関千枝子から中山士朗さまへ

              エッセイスト  関千枝子

 二〇一八年の年が明けました。とりあえず、新しい年を祝いたいのですが、安倍首相の年頭所感が、明治礼賛、明治維新一五〇年キャンペーン、そして、「新しい時代にあるべき姿を示す憲法」に改憲したいというのですから、いやになってしまいます。私は、今こそあるべき姿は「戦争放棄」だと思うのですが。そして「核兵器禁止条約」のことなど、もう、彼の頭にはないようです。
 
 昨年は、核兵器禁止条約が国連で採択され、それに関連してノーベル平和賞をICANが受賞するといううれしいことがあったのですが、それに対する日本政府の態度、本当に腹立たしいものがあります。このままにしておいたら、条約のことも、また、忘れ去られていくのではないか。どうしたらいいか、イライラしています。私は、昨年参加したある会で、日本政府に条約に署名批准せよという請願署名をしたらどうかと提案したのですが、誰も相手にしてくれませんでした。国連への署名はまだ続いていますが、私、世界の平和運動家たちは、ヒバクシャに、「まず、あなた方の政府をどうにかしなさいよ」、と言っているのではないか、と思ってしまうのです。署名五百万集めた、だけど選挙したら、条約に冷たい政府が圧倒的に勝利。日本という国いったいどうなっているの、と言われているような気がしてなりません。
 
 ノーベル賞授賞式、サーロ-節子さんの演説も立派だったし、オスロには大勢の世界の平和主義者が集まり素晴らしかったようです。丸木美術館の小寺理事長がオスロに行かれた報告書を出されました。詳しい報告で、私たちの知らないことがいっぱい。これを岡村さんの割り込みのように、私たちの書簡の間に入れてもらったらどうかしら。知の木々舎に相談してみるつもりです。

 さて、昨年ですが、多くの先輩同僚、友人たちを失くしました。多くの被爆した友人たちも世を去りました。人には寿命があり、死は仕方がないと言えばそれまでですが。
原爆関係でなくても、例えば、朝日新聞の元「天声人語」欄の辰濃和男さん、残念でした。辰濃さんは天声人語で私の『広島第二県女 二年西組』のことを書いてくださり、それでたいそう本が売れたのですが、その後も図書館のことなどで何度か書いていただいたのです。中山さんの『原爆亭おりふし』が、エッセイストクラブ賞受賞の時、辰濃さんはクラブの理事長でしたが、受賞作選評の時、評担当者がなんだかわけわからないことをしゃべり、ちょっと嫌な感じだったのですが、辰濃さんが、中山さんの文章の美しさを言ってくださり、ほっとしたことを覚えています。
 私たちの往復書簡も差し上げていたのですが、「いいお仕事をしておられますね」というお葉書いただきました。その時、沖縄の取材に行っている、これがひと段落してからゆっくり感想を書きますとあり、心待ちしていたのですが、その後、お便りもなく第Ⅲ集が出た時、お邪魔ではないかとお送りしなかったのです。それが‥‥。新聞で訃報を知り驚きました。辰濃さんは自然に強く、四国の巡礼などもされ、足腰の丈夫な方で、ずっと長生きされると思っていたのです。ショックでした。
 ヒバクシャも肥田舜太郎さんはじめ、多くの方が亡くなりましたが、佐伯敏子さんを偲ぶ会に参加したことを報告したいと思います。佐伯さんは、親族一三人を失い、その被爆体験は鬼気迫るものがあります。原爆供養塔の清掃を四〇年続け、遺骨の身元捜しにも、力を尽くされました。佐伯さんは、もっとも有名な語り部(彼女は自分では語り部とは絶対言わなかった。証言者です、と言っておられたそうです)です。東京で偲ぶ会があるというので参加しました。例の竹内良男さの会で、堀川恵子さん(『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』の作者)などの呼びかけで、東京でやるというので、伺ったのですが、、七七歳で倒れてから二〇年、広島でも彼女をよく知る人は少なくなっており、広島では偲ぶ会を開けないと聞き、びっくりしました。佐伯さんは倒れて施設に入られてからも、訪ねてくる方たちや、メディアの人には、積極的に対応し、語られたと聞いているのですが。
 行ってみると受け付けは石川逸子さん。昔の東京都葛飾区上平井中学の先生だった方がいっぱいおられ、しばらく、など挨拶され、驚きました。やがて、その訳が分かりました。佐伯さんは、自分のすさまじい体験を手記にまとめ、広島の学校などに送り、体験を若い人たちに伝えたいと思ったのですが、どこからも反響がなく、がっかりしていました。そこへ一九七六年、上平井中学のヒロシマ修学旅行が始まりました。上平井中学の江口保先生は、中学、女学校の慰霊碑の前で、遺族を探し出し、娘や息子を亡くした体験を語ってもらうことを企画していました。人前でしゃべったことなどないからと尻込みするお母さんたちを励まし、語らせました。生徒たちは感動し、お母さんたちはやがて「語り部」と呼ばれるようになるのですが。そんな中で、江口さんは佐伯さんの存在を知ります。佐伯さんの熱い証言、上平井中学の先生の思い、ぴったり合い、長い交流が始まります。石川逸子さんも、この時上平井中学の先生だったのです。 話を聞くほどに,佐伯さんと先生方との思いのつながりが分かりました。
 佐伯さんの証言のすさまじさには圧倒されます。一三人もの親族を亡くしたこともですが、親族との葛藤も率直に書いています。あの戦時下、みな自分の家庭があり、まず、家族に食べさせなければなりません。親類でもすげなくせざるを得ないことがあります。ほかの地の空襲でも親を失った子が親類に引き取られ(国が面倒を見ないので、無理やり押し付けられ)親類にいじめられ、いまだに自分の体験を書けない人がいます。親類への遠慮で。佐伯さんの証言は誠に率直。きれいごとでない真実が分かるのです。しかし、その後、親戚とのトラブルは無かったのかしら。
 佐伯さんのことは四〇年にわたる供養塔の清掃がありその名は忘れられないと思いますが、上平井中学の江口先生のことなども、もはや多くの方が知らなくなっていることも残念です。彼は上平井方式と呼ばれるヒロシマ修学旅行を作り出しました。当時は今と違いひとつの学校に長くいられた。修学旅行に熱心な先生方は上平井に長くとどまり平和教育に頑張ったのです。江口先生は定年後も広島に部屋を借り「ヒロシマ修学旅行を助ける会」を作りました。もちろんボランティアです。退職金も年金もつぎ込んでの活動でした。、江口先生も、もう一つヒロシマでは評判が良くなかったようで、亡くなられた後も広島に胸像を作ろうという話があったのですが、そのままになっています。江口さんも実に率直にものを言われる方だったので、煙たく思われたのかもしれません。
 ヒロシマ中学旅行も激減、いま東京の公立校などゼロに近い状況です。上平井中学もすっかり変わりました。上平井のヒロシマ修学旅行の記録どこかに保存されていると聞いたことがありますが、本当に残っているかどうか心配なことです。
 「佐伯さんを偲ぶ会」には広島からも多くの人が駆け付け、二次会もにぎやかにやって,実のある会でした。
 
 このあと、一二月一二日には丸浜江里子さんの葬式がありました。丸浜さんが癌であることは知っておりましたが、私より一〇歳以上若い丸浜さんの死は衝撃でした。彼女は杉並の草の根の人々の原水爆禁止署名のこと(第五福竜丸の被曝を受けて)に関心深く、その研究を一冊にまとめ本にしたばかり。九月にこの話を、竹内さんの会で報告され、それを聞いたばかりです。その時も、私、体のこと気遣ったのですが「大丈夫」と顔色もよく見え、少し安心していたのですが。
 彼女は私の女性ニューズ時代、「最後の、ヘビーな取材をした人」です。都立の学校で式の時の日の丸君が代の強制が厳しくなり、式のマニュアルも決められ、その通りにしないとダメ。都立高校にはそれぞれの学校でユニークな式があった、都の教育委員会は少しおかしいのではないかと、保護者達が立ち上がった。その中心が丸浜さんで、取材してしっかりした考えに感動、この闘いの後も交流が続きました。彼女が元教員で、歴史の研究者であることも知りました。原爆のことに興味を持つ彼女は、八・六に広島に来てくれ、私、広島中を引っ張りまわし、熱中症寸前の状態にしたこともあります(すみません)。
 彼女はずっと杉並の住人で、杉並に対する思いも強かった。それで彼女の興味が杉並の女たちから始まった原水爆禁止署名になったということもあるようです。そして彼女は熱心で、とことんやる人でした。昨夏頃から秋にかけ、彼女からくるメール、情報が主ですが、量も多くて、私は「鬼気迫る」ものを感じていました。
 彼女の葬式にはたくさんの方が来ておられました。当然ですが、会場が狭くて大部分の人は式の間中、外にいることになりました。天気が良かったので、まあ、よかったのですが。それにこのごろの葬式、友人の弔辞などなくて、電報をいくつか読み上げるだけ。ほかにもこんな葬式があり,このごろの斎場、時間を早く切り上げるためか友人の言葉などなくて、電報をいくつか読み上げただけ。この日は、最後に遺族の話があり、お連れ合いだけでなく、もお子さんたちもそれぞれ語られたのでよかったのですが。
失礼ですが、私はなんとなくお連れ合いが江里子さんの実力を「軽く見て」小さい斎場を選ばれたのではないかと思ったりしました。実は前にもこんなことがあって。その時は備える花までがたりなくなって、いったん捧げた花を下げて、もう一度使うありさまでした。丸浜さんの時はそれはなく、花は十分ありましたが。
 しかし、丸浜さんの市民運動への業績を語る言葉、欲しかったなあ。
 丸浜さんの共通の友人と式場で会ったのですが、丸浜さんは「人を仲間に誘うことがとてもうまかった」のですって。そして仲間に入れてしまうと、あなたはこれをして、と役を分担させることもうまかったそうです。私たちそれが下手で、つい一人で背負い込むことが多いのですが、彼女はとてもそれがうまかった。だから今日こんなに多くの仲間が来たのよ、ということでした。そして二人が交わした言葉は「とにかく彼女はやるべきことを最後まで(死の直前まで)やったわね」ということでした。すぐれた方のあまりにも若い死。本当に残念です。


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