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医史跡を巡る旅 №28 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・鹿児島篇

              保健衛生監視員  小川 優

江戸時代を終わらせ、明治の代を始めるにあたり、鹿児島、当時の薩摩藩が立役者であったことは間違いありません。幕末には積極的に西洋文明を取り入れ、近代化をはかった薩摩には、西洋医学にまつわる史跡が数多くあります。

「医学院跡」
医学院は安永3年(1774年)、薩摩第25代藩主島津重豪(幕末の名君といわれる成彬の曽祖父。隠居してからも長命で、後に80歳の時に斉彬とともにシーボルトに謁見を許している)によって創設された、漢方の医学教育・研究施設です。武士階級だけではなく町人にも聴講を認め、広く知識の普及を図りました。重豪は医学院だけでなく、のちに薬草園も設置し、藩内の医学の振興と充実に力を入れました。
重豪はこのほかにも藩校として造子館(朱子学)、演武館(武術)、明時館(のちの「天文館」、天文学)などを設立しており、幕末の鹿児島における知識・技術・武術の、振興・普及・向上に尽力した点で評価されているようです。

24①醫學院跡.JPG
「醫學院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
24②醫學院跡プレート.JPG
「醫學院跡」石碑説明プレート
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「医学院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
24④医学院跡プレート.JPG
「医学院跡」石碑説明プレート

石碑は、繁華街の天文館も近い中央公園から国道225号線を挟んで、東千石町側の歩道上に大正12年に設立された石柱状の「醫學院跡」、中央公園内に平成17年になって設置されたモニュメント風の「医学院跡」の二箇所があります。実際の医学院は古い石碑、「醫學院跡」に近いところにあったようです。この「醫學院跡」の碑、かつては半分植栽に埋もれ、肝心の部分が読めない状態でした。

どちらの碑の説明板にも「江戸の医学館を模範として「学規八略」を定め…」の一文がありますが、医学館前身の躋寿館(将軍奥医師多紀元孝が1765年に設立)が医学館と名を変え幕府所管となったのは寛政3年(1791年)で、つまり医学院設立時に医学館はなかったわけです。おそらく「躋寿館(のちの医学館)」と記すべきところを、簡単に省略してしまったのではないかと思われます。

「赤倉の跡」
明治元年(1868年)、薩摩藩は西洋医学を取り入れた医学校と、付属の病院を、現在の南洲公園に設立します。この学校は後に市内小川町に移り、赤レンガ造りの外観から「赤倉」と呼ばれるようになりました。医学館の校長兼病院長として、生麦事件の被害者リチャードソンの検視、戊辰戦争における野戦病院としての軍陣病院の設置などで知られる英国人医師ウイリアム・ウイリスが、軍陣病院で西郷隆盛の弟、西郷従道を治療した縁もあってか招聘され、1869年12月に着任します。新政府はその後、帝国大学医学部を中心としてドイツ式医学一辺倒となりますが、この医学校では主にイギリス式医学を教え、高木兼寛など優れた医師を輩出します。こうして地方における医学教育の雄として名を馳せますが、惜しくも勃発した西南戦争により、1877年、その短い歴史を閉じます。しかしその命脈は連綿と県立鹿児島医学校、県立鹿児島大学医学部、そして鹿児島大学医学部に繋がってゆきます。

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「赤倉の跡」石碑~鹿児島市小川町

石碑は鹿児島駅に近い市電桜島桟橋通電停のある交差点の、南西側の角にあります。小さいながらもなかなか風格のある石碑ですが、詳しい説明版もなにもなく、少し寂しい状態です。

「ウイリス、高木に西洋医学を説く」
海軍における脚気病撲滅で有名な高木兼寛は、明治3年(1869年)から明治5年に上京するまで、ここ鹿児島医学校でウイリスに学び、また治療にもあたります。二人の交流を描いたオブジュがかごしま県民交流センターに設置されています。

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「ウイリス、高木に西洋医学を説く」~鹿児島市山下町 かごしま県民交流センター

「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」
「赤倉の跡」で触れたとおり、ウイリアム・ウイリスは鹿児島の西洋医学教育の大恩人といえるでしょう。ウイリスが日本を離れた後の明治26年、かつての教え子が中心となって鹿児島市城山に頌徳記念碑が建てられました。碑の除幕式には高木兼寛も参列したようです。その後この碑は昭和29年に元県立病院跡地へ移転、次に昭和49年に鹿児島大学医学部および付属病院の移転に伴い鹿児島市桜ヶ丘に移設され、さらに平成9年、鹿児島大学医学部創立50周年記念事業として鶴陵会館の落成にあたり、この中庭に据えられました。

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「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

非常に管理が行き届いて良い状態ですが、会館の中に入らなければ見ることができず、郷土の恩人の遺徳を偲ぶよすがとしては、もっと万人の触れやすいところに設置したほうが良いのではと、老婆心ながら思ってしまいます。なおこの鶴陵会館には、ウイリスを記念して大ホールにその名を関しており、入り口に氏のレリーフも設置されています。

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「ウイリアム・ウイリス ホール レリーフ」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」
医学校が発展した県立鹿児島医学校と附属病院は西南戦争後の明治15年、南洲私学校跡に移転します。その後医学校は一旦廃止されますが、付属病院だけは所管が民営、市営、県営と変わりながらも存続します。しばらく県立鹿児島病院として運営された後に、昭和18年に県立鹿児島医学専門学校附属病院に戻り、さらに昭和33年には病院が国立移管され、鹿児島大学医学部附属病院となります。こうした幾多の変遷を経ながらも、この由緒ある地を離れることはなかったのですが、昭和49年には医学部移転に伴い、鹿児島市宇宿町にとうとう移ることとなります(現在地名は鹿児島市桜ヶ丘)。移転した跡にはいま、国立病院機構鹿児島医療センターがあります。

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「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」~鹿児島市城山町

私学校当時からの門(入り口としての機能は閉鎖されている)、石塀は今も残されており、史跡となっています。記念碑はこの門の閉鎖された壁に設置されていますので、正面に立ってみないとその存在に気付きません。一方私学校は西南戦争末期の市街戦における激戦地のひとつであり、その石塀には今も数多の弾痕が残されています。


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