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多摩のむかし道と伝説の旅 №4 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

-小仏峠を越えて甲州道中を行く-

                                         原田環爾

 甲州道中は江戸幕府が代官大久保石見守長安に命じて整備させた五街道の一つである。日本橋を起点に江戸と甲州を結ぶ街道で今は旧甲州街道と呼ばれている。慶長9年(1604)に甲府まで、慶長15年(1610)に下諏訪まで延長して中山道と接続し完成した。天下を掌中に納めた徳川家康であったが、甲州武田の残党の動静を監視する必要があり、また万一の事態に備えて逃走路を確保しておく必要もあって整備されたと言われる。
 甲州道中のルートは日本橋から高尾までは概ね現在の甲州街道と同じかまたはその近傍を縫う道筋であるが、高尾の小名路からは大いに異なっていた。すなわち現在は高尾山南麓を経て大垂水峠を越え、相模湖畔の与瀬に出る道筋であるが、これは明治21年に開かれた道で、それ以前の甲州道中は、小名路から裏高尾に入り小仏峠を越え、美女谷を経て小原宿、与瀬宿、吉野宿へと通じていた。
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 街道の整備として裏高尾の駒木野には関所が置かれ千人同心を配した。関所を通るには通行手形が必要で、監視は厳しく、特に「入り鉄砲に出女」と称して、鉄砲流入と女の出国は厳しく詮議された。関所破りは磔で刑場は小名路にあった。また街道を往来する旅人の便宜を図るため一里塚を設け、塚には榎が植えられた。これには面白いエピソードがある。長安が塚に植える木を二代将軍秀忠公に尋ねたところ「余の木を植えよ」との返事があった。そこで榎を植えたという。余の木とは適当な木という意味であったが、長安は耳が遠く「えのき」と聞き違えたという。また街道には宿場が設けられ、宿場ごとに本陣、脇本陣、旅籠、問屋場が置かれた。しかし甲州道中は信州信濃の高島・高遠・飯田三藩の大名大名の参勤交代と、三代将軍への宇治茶献納の茶壷道中として利用される程度で、旅人も少なく寂れた街道であった。
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従って宿場毎に常備する馬、人足は25疋、25人と、東海道の100疋、100人、中仙道の50疋、50人に比べて少なかった。宿場の経営は苦しく合宿が行われた。今でいうワークシェアリングである。例えば高井戸では月の前半を下高井戸宿、後半を上高井戸宿、布田五宿では月を5等分、八王子では横山宿と八日市宿は1月交代、駒木野宿と小仏宿では月の前半と後半で分け合い、相州の小原宿と与瀬宿では上りを小原宿、下りを与瀬宿が分担した。そのほか民間郵便とし4-4.jpgて甲府と江戸の間を飛脚が走った。月に三度往復したことから三度飛脚と呼ばれ、小仏宿には「三度屋」という定宿があった。宝珠寺には彼らが寄進した石灯籠が残されている。ちなみに三度笠は彼らが被っていた菅笠に由来している。
 時代は下って、風雲急を告げる幕末の動乱期、甲州道中は官軍と幕府軍の衝突の舞台ともなった。鳥羽伏見の戦いに敗れ、京から敗走してきた新撰組は、新たに隊士を募り甲陽鎮撫隊を結成し、官軍への最後の組織的抵抗を企てた。世に言う甲州勝沼戦争である。板垣退助を参謀とする東山道軍が江戸へ向け甲州道中を進軍する中、慶応4年3月1日甲陽鎮撫隊はこれを阻止すべく甲府城を目指し江戸を出発した。隊士は200名足らず、装備は大砲2門に小銃500丁であったという。翌2日八王子に宿陣、3日は猛吹雪の小仏峠を越え与瀬宿に入った。4日には雪の降りしきる笹子峠を越え駒飼宿に入ったが、ここで甲府城がすでに官軍の手に落ちたことを知る。やむなく勝沼の柏尾山麓に陣を敷き最後の一戦を決意した。6日、午前1時、甲州勝沼戦争の戦端は切られた。近藤勇は鎖帷子で武装して奮戦したが、官軍の圧倒的な火力、兵力に甲陽鎮撫隊の大砲2門は沈黙、1発の火をふくこともなく壊滅。同日5時には戦闘は終結し甲陽鎮撫隊は敗走した。敗走の途中、大月では猿橋の破壊も考えられたが、隊士のひとり日野の名主佐藤彦五郎は橋は村人にとってかけがえのないものであることを知っていたので、破壊を断念させた。結果、猿橋は三大奇矯の一つとして今日に残されている。美女谷では寺を焼きその明かりで小仏峠を越えたという。そして8日八王子の多賀神社で隊は解散した。小仏峠越えの甲州道中は甲陽鎮撫隊に名を変えた新撰組最後の進撃路でありまた敗走路でもあった。
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 余談であるが小名路から与瀬までの小仏峠越えの甲州道中を辿れば面白い伝説が残されていることに気づかされる。三話ばかり紹介する。

■念珠坂の銀河夜叉
4-6.jpg駒木野関を抜けると念珠坂と呼ばれる長い下り坂がある。昔この辺りに銀河夜叉という鬼がいて、夕暮れ時に出没しては人を襲っていた。ある日、里の婆さんが高尾山に参詣した。思いのほか遅くなり銀河夜叉のことを心配をしていると、老師が通りかかり数珠をくれた。婆さんは数珠を持って山を降り坂を越えようとした時、 案の定銀河夜叉が現れて襲いかかってきた。婆さんは逃げたが足がもつれてひっくり返った。その弾みで数珠の紐が切れ、数珠球がコロコロと坂道を転がりだした。銀河夜叉は数珠球に足を捕られて、坂の下まで転げ落ち大穴に落ちてしまった。以来銀河夜叉は現れなくなったという。

■蛇滝の由来
4-8.jpgバス停「蛇滝口」の傍らに旧蛇滝茶屋がある。高尾山の蛇滝信仰の講中が利用した休憩所だ。参道入口はそこから少し進んだ所にある。蛇滝という名前の由来についてこんな話がある。昔、高尾山を中興した俊源大徳という偉い坊様がいた。ある日、水行に適した滝がないかと裏高尾を散策していると数人の猟師がなにやら騒いでいる。近づいて見ると白蛇を踏みつけて山刀で殺そうとしているところだった。聞けば鹿を射ようとしていたところ、この蛇が足に噛みついて取り逃がしてしまったと言う。以前にも同じ様なことがあり、今度こそはこの蛇を殺さないと気がおさまらないというのである。坊様は殺生はよくないと幾ばくかの金を渡して蛇を助けてやった。 蛇は大変喜んでお礼に坊様が求めるよい滝に案内しましょうと、沢伝いに這い進み大きな岸壁をするすると登り始めた。すると不思議なことに蛇が岸壁の上に達するや否や一条の清らかな滝が流れ落ちた。坊様は水行にとてもいい滝だと大変喜びんだ。蛇が滝になったことから以後この滝を蛇滝と呼ぶようになったという。

■美女谷伝説
4-7.jpg小仏峠を下りおりた所を美女谷という。谷筋を流れる底沢川には古びた橋が架かる。橋の名は美女谷橋という。美女谷とは何とも気になる地名だが、これには照手姫という美女にまつわる伝説が残されていることによる。室町時代のこと、底沢川の上流の西入川の七つ淵という所に照手姫という美しい娘がいた。ところが父母に先立たれ、やむなく八王子から藤沢へ出た所で横山太郎という盗賊に囚われた。折から常陸国小栗の城主であった小栗判官平満重が謀反の疑いで関東管領足利持氏に追われて藤沢にやってきて盗賊の宿に泊まった。盗賊は満重から金品を巻き上げることを計画し、照手姫を使って毒殺しようとした。驚いた照手姫は計略を満重に打ち明けたため、かろうじて一命を取り留めることができた。照手姫は盗賊の元を脱走し武州金沢へ向かったが追っ手に捕らえられ川へ投げ込まれた。幸い漁師に助けられたが、こんどは漁師の女房が嫉妬し美濃国の青墓宿に遊女として売られてしまった。一方、平満重は謀反の疑いが晴れて小栗城に復帰し、やがて横山太郎を討伐し、照手姫を救い出して妻に迎え平和に暮らしたという。

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