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文化的資源としての仏教 №6 [心の小径]

文化的資源としての仏教6                

                             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                         往生考⑷――往生際:往生=諦

 前々回は「大往生」という言葉をキーワードにして「往生=死」の意味について、そして前回は「立往生」をキーワードにして「往生=困」の意味について考えた。今回は、「往生」という言葉の三つ目の意味である「諦」について考えてみたい。今回のキーワードは「往生際」である。
 「往生際」という言葉には文字通り「死に際」という意味もあるようである。しかし、この意味ではこの「往生」も「死」という意味になり、「往生=死」についてはすでに考えたので、ここで再び取り上げる意味はないであろう。また、仮に今にも息をひきとろうとしている終末期の患者の所に行って、「往生際が悪い」などと言う場面を想像してみるならば、それは悪い冗談としか言いようがないであろう。それに「往生際の悪い人」という言葉を使用する場合には、やはり一般的には「諦めの悪い人」という意味で使っているはずである。そこで今回の「往生」の意味の焦点は「諦」という語をめぐる問題になるのであるが、実はこの「諦」には以下の二つの意味がある。
 現代では「諦め」という言葉は、一般に「望みを断念すること」という意味に受け取られているが、実はこれは日本的な語法であって、もともと中国語としての「諦」は「つまびらかにする」「まこと、さとり」という意味であり、そこに「断念」の意味はないという。また、仏教においては「諦」は、「真理」を意味する “satya”(サンスクリット語)・“sacca”(パーリ語)の訳語として、「タイ」と読んで用いられてきた。従って、日本でも古くは、「あきらむ」は「物事の道理を明らかにする」という意味だったという。しかし、江戸時代に「諦=断念」の用法が生まれ、日本ではしだいにこちらの意味が主流になったと言われているのである(岡崎義恵『鷗外と諦念』宝文館、1969年、278-280頁;安川民男「鷗外と魯迅の “諦観”」『鷗外』74号、2004年、53-54頁)。
 このことから私は、「諦め」という言葉には二重の意味があると考えるのがよいのではないかと思っている。つまり、「諦め」という言葉は、「物事の道理を見極めた上で断念すること」という意味に受け取るべきではないかということである(寿台順誠「「諦め」としての安楽死――森鷗外の安楽死観――」『生命倫理』通巻27号、2016年、19-20頁)。私は、仏典に説かれたキサー・ゴータミーという女性の話が、その意味での「諦」を見事に表していると思う。幼い息子を亡くして悲しみに打ちひしがれ、息子を生き返らせる薬を求めて釈尊のもとにやってきたゴータミーに対して、釈尊は一人も死人を出したことのない家から芥子の粒をもらってくるようにと言うが、結局そのような家は一軒もなくそれが得られなかったことから、ついに彼女は世の無常をさとって出家したという話である(中村元訳『尼僧の告白――テーリー・ガータ』岩波文庫、1982年、108頁)。人は無理やり「望みを断念しろ」と言われてもなかなかそうできるものではない。が、しかし、「諸行無常」という「真理」が理解できたならば、死んだものを生き返らせるという不可能事は「断念」せざるを得ない。「真理・道理が見極められて初めて、断念すべきものを断念できる」――「諦め」という言葉には、そのような深い意味があると思われるのである。
 以上のようにして、諸行無常の真理をさとったならば、人は今生において永遠に生きることは断念せざるを得なくなる。が、そこに至ってはじめて、それであれば人はこの世の生を終えた後、一体どうなるのか、そしてそういう問題についてどのように考えたらよいのか、ということが真剣な問題になるであろう。そこで次回はいよいよ「往生」という言葉の最後の意味として、最も重要な宗教的・仏教的意味について考えてみたいと思う。(次回は「往き生れること:going to and birth in the Pure Land」について考える。)


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