西洋百人一絵 №85 [文芸美術の森]
スーティン「七面鳥」
美術ジャーナリスト、美術史学会会員 斎藤陽一
一時期、「芸術は爆発だ!」という岡本太郎の言葉が流行ったが、シャイム・スーティン(1893~1943)の絵を見ると、思わず「スーティンの絵は爆発だ!」と言いたくなる。彼は、人物も描いたし、風景や静物も描いた。そのいずれのジャンルでも、形はゆがみ、強烈な色彩が画面に炸裂し、画家の激しい情念が爆発しているような感覚を覚える。
例えばスーティンが、ピレネー山中のセレに滞在して描いた風景画「村」(1924年頃)を見ると、風景はほとんど輪郭を失ってゆがみ、激しいタッチで塗られた原色の絵具が渦を巻き、何が描かれているのか判別しがたい。むしろ風景はスーティンの感興を誘発する起爆剤であって、そこで火がついた画家の主観がそのままイメージとなって爆発した― そんな絵に思えてくる。
スーティンは、“美しいものを美しく描く”という古典主義的な美学や、“三次元の対象を二次元の平面に目に映る通りの疑似空間として再現する”という写実主義の美学から全く解放された画家である。
彼は、自分が対象から“感じ取ったこと”を表現した。何よりも、対象から触発されて自分の内面から湧き起こるイメージに執着した。そういう意味では、スーティンは“絵画の主観化”を推し進めて、「二十世紀表現主義」の先端にいた画家と言えよう。
スーティンは、当時ロシヤ領だったリトアニアの貧しいユダヤ人家庭に生まれた。正規の教育も受けず、絵を描きながら各地を放浪したあと、20歳のとき、パリにやってきた。そのとき、モンパルナスの酒場で知り合ったのがモディリアニである。二人は、気質も育ちもまるで違っていたが、たちまち意気投合し、親しくなった。都会生活のマナーを知らないスーティンに、ナイフやフォークの使い方を教えたのはモディリアニだったし、何かとスーティンの面倒を見たのもモディリアニだった。モディリアニは、野人スーティンの中に、粗削りだがナイーヴな人間性と、絵画へのひたむきな情熱を感じ取り、愛したのだろう。
パリのオランジュリー美術館には、スーティンの油彩画「七面鳥」(制作年不詳)が展示されている。
一見、何が描かれている絵なのか分かりにくいが、描かれているのは、羽をむしられ吊るされている七面鳥である。画面の左上には口を開けた七面鳥の頭部が、中心部分には羽をむしられて赤裸となった体が、激しい筆致と色彩で描かれている。それにしても、異様なモティーフである。
実は、スーティンは、死んだ動物をたくさん描いた画家なのだ。様々な鳥や牛、ウサギなどである。それも、鳥は羽をむしられ、牛は皮をはがされた姿で描かれる。なぜスーティンはそのような題材をしばしば描いたのか?
スーティン自身が語った少年時代の出来事がヒントになりそうだ。それは、彼が、村の肉屋が楽し気に鳥の首をはねるのを見て戦慄したという体験である。彼によれば「僕は思わず叫び声を上げようとしたが、店主の嬉しそうな顔を見て、その叫び声を飲み込んでしまった」という。その叫び声は、発されないまま、その後もずっと自分の中にこびりついて離れず、死んだ動物を見るも無残な姿で描くことで、解放されようとするのだ、とも語っている。
彼が描く動物は、いずれも人間の食料になるために殺された生き物である。言わば人間の生命維持のために、犠牲となった生き物の姿である。この人間生存の現実が、少年スーティンが飲み込んでしまい、その後もまとわりついて離れない「叫び声」の正体である。 スーティンは、その現実を凝視し、自分の中に湧き起る嫌悪感と罪悪感というような情念を画面に吐き出している。
友人モディリアニが貧窮の中で死んでから間もなく、アメリカの富豪で美術収集家のA.C.バーンズが、スーティンの作品100点をまとめて買ってくれることになり、突然スーティンの生活は好転した。それ以降も、折にふれてスーティンはモディリアニへの感謝の言葉を口にし、「今日の私があるのは、モディリアニのお陰」と語ったという。
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