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立川陸軍飛行場と日本・アジア №139 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

十月事件

                                  近現代史研究家  楢崎茂彌
 
 十月事件(閣議を襲撃、首相ら暗殺計画)、闇に葬られる
 敗戦直後に旧陸軍の内幕を暴き、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で検事側の証人に立った田中隆吉少将は、十月事件について次のように書いています。
 “この事件が初めて明るみに出されたのは昭和二十一年七月初頭、市ヶ谷の法廷で為された証言によってであった。この事件は三月事件同様に、法によって審かれず暗から暗に葬られた事件である。従って今なお甲論乙駁、その真相を知る者は少ない。”(「陸軍軍閥暗闘史」中公文庫)
 “満州事変に呼応し、国内政治の根本的な改造を行うことを目的とする”としたこの事件については、関係者の著作や回顧談はありますが、闇の中の事件なので、司法省刑事局の公式な調査報告を引用します。
 “(二)計画
田中清少佐執筆と伝えられる手記には次の如く記載されて居る。
 参加兵力
加盟せる将校在京者のみにて約百二十名
近衛歩兵連隊より歩兵十個中隊 機関銃一中隊 歩三より約一中隊 但し夜間決行の場合には歩三は殆ど全員
外部よりの参加
大川博士及び其門下
西田税、北一輝の一派
海軍将校の抜刀隊横須賀より約十名
霞ヶ浦の海軍爆撃機 十三機
下志津より飛行機 三-四機

実施
1 首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下の斬撃=長少佐を指揮官とする
2 警視庁の急襲占領=小原大尉を指揮官とする
3陸軍省、参謀本部を包囲、一切外部との連絡を遮断並上司に強要して同意せしめ、肯ぜざる者は捕縛す。軍行動に対する命令を下す。
4 同時に宮中には東郷元帥参内。
 新興勢力(彼等は自ら新興勢力と称せり)に大命降下を奏上す。
 閑院宮殿下、西園寺公に急使を派す。
新内閣の氏名
首相兼陸相  荒木中将
内務大臣   橋本励五郎中佐
外務大臣   建川美次
大蔵大臣   大川周明博士
警視総監   長少佐
海軍大臣   小林少将(霞ヶ浦海軍航空隊司令官小林省三郎)
其他彼等の見て不良将校、不良人物に対する制裁
資本金二十万円ほどは随時使用し得る如く準備しあり
  一方橋本中佐、長大尉、田中弥大尉、天野勇中尉等所謂十月事件の御歴々連中は、すでに天下を掌握したかの如く大言壮語し、且連日待合料亭に会合して居った。菅波、末松らは次第にこの態度に疑惑を持つに至り、橋本らは真の憂国の至誠より発したものに非ずして、権勢欲より出たるものに非ずやと思うに至った。”
 「右翼思想犯罪事件の総合的研究-血盟団事件から二・二六事件まで」(“思想研究資料特編第五十三号”司法省刑事局・1939年2月刊)
 この武力蜂起は未遂に終わります。これほどの事件なのに、軍首脳や政府は青年将校たちの暴発を恐れて、首謀者の一人橋本励五郎を20日の重謹慎で済ますなど、軽い処分をしただけでした。これでは関東軍同様にやり放題になりますよね。武器を持った軍隊がやり放題に出来る社会ほど恐ろしいものはありません。十月事件が二・二六事件の原型であることが分かります。
 この事態を内大臣府秘書官長(のちに昭和天皇の補佐官にあたる内大臣となる)木戸幸一は日記に次のように書いています。
 『十月十七日 
 午前八時十五分スタートで、程ヶ谷ゴルフ場で…岩崎カップトーナメントに参加した。午後二時頃より豪雨となり、閉口した。
 夕方帰宅、京都原田より電話あり、陸軍参謀本部将校の検束事件を知る。直ちに井上候を訪問、実情を聴く。大様左の如し。
“陸軍首脳部に於いて南陸相始め大臣官舎に集合、昨夕より今朝まで重要会議を為し議容易に纏まりざりしが、今朝三時遂に決定、午前四時憲兵隊に於いて参謀本部橋本中佐、根本(博)中佐外十名を保護検束せり。其の動機は数日中(二十日とも云う)に彼等の手にて陸軍省、参謀本部を包囲占領してクーデターを行わんとするものにて、本日正午、青年将校を偕行社に集めて指令せむとせるものなり。右の同志には近衛連隊の大隊長ありと云う。一、二ヶ中隊は動かし得る状態にあると云う。実に驚くべき事実なり
 七時、内大臣を訪問、右の趣を報告す。
十月十八日
 午前八時半、朝日新聞の岡見(斎)氏来訪、矢張り軍部の陰謀について語れり。同氏は、今回の原因を金谷参謀総長の排斥運動に端を発せりと見居り。
十月二十日
 今回の軍部の陰謀は一説には左の如く伝えられている
 十七日に若槻、井上、幣原各大臣、牧野内大臣、一木宮内大臣、鈴木侍従長、河井太夫、
関屋次官、犬養(毅)政友会総裁、床次、鳩山等を暗殺せむとの計画を曝露した為なりと云う。又一説には内大臣は暗殺せず、彼等一味は各大臣を暗殺の上、内大臣邸に至り顛末を述べ奏上を依頼した上、二重橋前にて割腹せむとすとも云う。何れも事実として俄かに信じ難き話なり。
 夜、朝日大塚来訪、大分、政党の分解作用行われんとする模様なりと云う。』 
 木戸にも正確な情報が入っていません。朝日新聞の記者が訪れて話をしていますが、新聞には一切報道されませんでした。
 昭和天皇にはどのように報告されたのでしょうか。
“ 昭和六年十月十六日
 午前九時五十分、侍従武官長奈良武次に閲を賜い、去る十六日夜、陸軍将校の一部が憲兵隊により検束縛された事件(十月事件)につき御下問になる。午後二時、陸軍大臣南次郎に閲を賜い、同事件についての奏上を受けらる。
 二十八日
 …併せて本月十六日の陸軍将校検束事件等について(侍従武官長奈良武次より)奏上を受けらる。(「侍従日記」「奈良武次日記」)” 「昭和天皇実録第6」
 残念ながら天皇に報告された内容は全く分かりませんし、天皇の反応も不明です。これでは何のための実録なのかと疑問が湧きます。敗戦直後の1946年3月と4月に側近が昭和天皇に行った聞き書き「昭和天皇独白録」は十月事件には触れていません。天皇にどのような報告が行われたのか気になります。
 10月30日には、十月事件について永久に公表しないことが閣議決定されます。2013年に制定された特定秘密保護法は、再びこうした事態が起こるのではないかと憂慮する多くの国民が反対したのだと思います。

 空の港 立川存続のために 民間飛行存置運動
 立川陸軍飛行場の西部分を使用していた日本航空輸送は8月に新設の羽田(東京飛行場)に移ってしまいましたが、残った民間関係も1932年3月に使用期限が切れます。立川町はとしては、この移転は死活問題ですから、陸軍大臣に139.jpg使用期限の延長を働きかけることにします。中島町長は“明年三月以降は立川飛行場を使用させないというわけではないらしいので、出来る事なら当分の間現在の通り認めて欲しい旨運動をしようと思います。全部が駄目なら、せめて学生連盟と新聞関係のものだけでも置いて欲しいと思います。”と述べています。日本飛行学校の小暮主事は“羽田の飛行場は芝生の密着不十分で、私の所のように一日何十回となく離着する訓練飛行には芝生を随分荒らすので逓信省でも成るべく遅く移転することを希望しているようですが”として、期限の延長を望んでます。(「東京日日新聞・府下版」1931.11.20)
 でも便利さから言えば、残念ながら都心に近い羽田に軍配が上がりますよね。上のように報じている東京日日新聞社は、10月14日には“立川飛行場から羽田に移る格納庫 
お先に本社の格納庫”という記事を載せ、11月中には立川を引き払うとしています。中島町長のもくろみは実現しそうにありません。
 右の写真の上が羽田飛行場で、下の写真中央の大きな建物が立川町の東京日日新聞社格納庫です。所沢から立川に移って来て(連載NO47)わずか3年と4カ月で又お引越しです。関東大震災を契機に立川に移転して来た老舗朝日新聞社はどうするのでしょう。


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