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医史跡を巡る旅 №16 [雑木林の四季]

脚気論争~脚気相撲 後篇

                                  保健衛生監視員  小川 優

脚気病院では、審査専任委員のほかに、編輯専任委員、事務専任委員が選任されていました。
まず編輯専任委員(編輯は編集と置き換えていいようです)としては、今までにも何度も登場しています陸軍一等軍医正の石黒忠悳が、事務専任委員には東京府病院長の長谷川泰、宮内省医員で明治天皇侍医である高階経徳がそれぞれ任じられています。

「長谷川泰墓」
天保13年(1842年)越後国古志郡福井町、現在の新潟県長岡市福井町に長岡藩医の長男として生まれる。最初父長谷川宗斎のもとで漢方を学ぶが、文久2年(1862年)江戸に出て西洋医学を学び、のちに佐藤泰然の順天堂に入塾。戊辰戦争の勃発とともに長岡藩に戻り軍医となるが敗戦。明治2年(1869年)東大医学部の前身である大学東校の助教となり、かたわらミュルレル、ホフマンといったお雇い教官に学ぶ。医学校校長、長崎医学学校長を歴任後、明治9年(1876年)私立医学校済生学舎をひらく。

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              「長谷川泰墓」~東京都台東区谷中 谷中霊園

「済生学舎発祥の地」碑
明治7年(1874年)の「医制」により、医師になるには東大医学部を卒業するか、医術開業試験に合格しなければいけなくなります。それまでは自ら医師と名乗れば、知識、経験を問われることなく、だれでも開業できる状態でした。ところが医制のもと新しい医師の養成機関たる東京大学も、その入学自体極めて狭い門でした。野放し状態である医療制度を整理するためにも、西洋医学を広め、国民がその恵に与るためにも、多数の医師の養成が急務となります。むしろ研究者、教育者の養成を目的とする東大医学部だけでは、とても医師数が充足できません。その解決策として採用されたのが、医術開業試験制度です。そしてその試験のための対策、すなわち座学、実習をおこなうために幾つかの私学校が設立されました。済生学舎もその一つです。校舎ははじめ文京区本郷、現在の順天堂大学敷地内におかれました。

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 「済生学舎発祥の地」碑~東京都文京区本郷二丁目 順天堂センチュリータワー敷地内

「野口英世と済生学舎」碑
本郷の校舎は明治12年、火災により焼失します。明治15年文京区湯島に新校舎を建設、以後多くの医師を輩出します。野口英世もここの卒業生です。明治36年、医師免許制度が改められ、官立医学校を卒業するか、文部大臣の認可する医学専門学校を卒業しないと医師免許が与えられないこととなり、済生学舎も専門学校化すると思われていました。ところが明治36年(1903年)、長谷川泰は突如廃校宣言を行い、郷里長岡に引きこもってしまいます。廃校後、一部の在籍教師や在校生を中心として私立日本医学校が設立され、これが現在の日本医科大学へと繋がります。突然の廃校宣言については、東大派閥との争い、金銭的理由、有力者との確執など諸説ありますが、今となっては真偽のほどはわかりません。

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  「野口英世と済生学舎」~東京都文京区湯島一丁目 東京ガーデンパレス敷地内

長谷川泰は済生学舎学長を務めるかたわら、明治9年には東京府病院院長、避病院院長、(1898年)内務省衛生局長を歴任します。奇行が多かったと伝えられていますが、「済生」の名で分かる通り、貧困者の医学的救済を信念とした、気骨ある明治人であったのは間違いないでしょう。明治45年(1912年)、大腸がんで死去。71歳。

「高階経徳墓」
天保5年(1834年)、京都生まれ。代々天皇の侍医たる典薬寮医を務める高階家出身で、父親は高階経由。文久元年(1862年)、和宮内親王が徳川家茂に嫁ぐ際には上京に付き添う。明治元年まで典薬寮医は漢方医で占められていたが、経由、経徳親子の建白により、西洋医も採用されることとなる。明治2年大典医になるが、西洋医学の台頭により降格され、明治10年には侍医から医員にまで下げられてしまう。一方で自らも西洋医学を学び、明治12年侍医に復する。下谷練塀町(現在の千代田区神田練塀町)に私立の医学校「好寿院」を開き、近代医制における女医第一号の荻野吟子もここの出身。明治22年(1889年)54歳で没する。

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           「高階経徳墓」~東京都台東区谷中 谷中霊園天王寺墓地

さていよいよ脚気相撲の顛末に移ります。公式な報告は「脚気病院報告」として第一報告から第三報告まで石黒忠悳の名前でまとめられ、衛生局長長與專齋の名で報告されています。
まず4人の治療委員は、いったいどんな治療を行っていたのでしょうか。
第1区は今村亮で、漢方医です。食事は米穀、牛肉、牛乳、卵、カレイ、キスなどの白身魚、赤小豆、海苔、昆布、パン、ハス、大根、蕪などを与え、症状に合わせてトリカブト(附子)、甘草、朝鮮人参、芍薬、烏頭などの漢方薬を処方しました。
第2区が小林恒は西洋医。「牛乳療法」を実践していたようです。結構過酷な食事療法だったようで、普通の食事はさせずに一日30~40合(資料の字がつぶれていてよく読めないので、単位が間違っているかもしれません)のみを飲ませ、まだ食欲があれば米粥、蒸餅を食べさせました。
第3区は佐々木東洋、西洋医学の大家です。具体的な療法については詳しく述べられてはいませんが、滋養のあるものを食べさせ、症状に合わせて利尿薬は使ったようです。また赤小豆を試してみたが、その色素だけ抽出したものではあまり効果はなかったとの記述もあります。
第4区が遠田澄庵。漢方医です。魚、鳥、獣肉や米飯は与えず、赤小豆を蒸したもの、菱を蒸したもの、蕗味噌などを食べさせました。わざわざ報告中に「一家秘密ノ方法ヲ以テ之を治療ス」とあり、どのような処方をしたのかは明かさなかったようです。

それでは治療の結果はどうだったのでしょうか。繰り返しになりますが、第1区が今村亮、第2区が小林恒、第3区が佐々木東洋、第4区が遠田澄庵、重症者の第5区は佐々木東洋がそれぞれ担当しています。
第一報告 明治11年7月10日から12月10日まで
第1区 患者数49中、全治退院19、半治退院5、死亡13で治癒率38.8
第2区 患者数50中、全治退院30、半治退院6、死亡9で治癒率60.0
第3区 患者数46中、全治退院37、半治退院5、死亡4で治癒率80.4
第4区 患者数48中、全治退院23、半治退院9、死亡3で治癒率47.9
第5区 患者数 6中、全治退院3、半治退院1、死亡2で治癒率50.0

第二報告 明治12年4月1日から12月10日まで
第1区 患者数52中、全治退院33、半治退院8、死亡8で治癒率63.47
第2区 患者数52中、全治退院44、半治退院1、死亡1で治癒率84.62
第3区 患者数57中、全治退院37、半治退院8、死亡8で治癒率64.62
第4区 患者数58中、全治退院31、半治退院6、死亡1で治癒率53.44
第5区 患者数19中、全治退院14、半治退院0、死亡4で治癒率73.68

第三報告 明治13年4月1日から12月10日まで
第1区 患者数33中、全治退院23、半治退院1、死亡4で治癒率69.70
第2区 患者数46中、全治退院35、半治退院2、死亡1で治癒率46.09
第3区 患者数60中、全治退院50、半治退院2、死亡3で治癒率83.33
第4区 患者数27中、全治退院15、半治退院3、死亡0で治癒率55.56

治癒率を単純に平均し、良い順に並べると佐々木東洋、小林恒、今村亮、遠田澄庵の順になりますが、生存率で見ると、遠田澄庵、小林恒、佐々木東洋、今村亮に並び変わります。遠田澄庵は初診時に治癒の見込みのないものはその後の診察を断り、その患者が第5区にまわされていますので、彼の区の生存率が高いのは納得です。
この数値だけ見ると、西洋医学側の方の成績が良いように見えます。ところが比較するための前提として、全治退院とするときの条件が、全て一致していたかどうかという疑問が浮かびます。また各区の患者の初診時の状態が均等であったかどうかも、報告の内容だけでははっきりしません。入院時に既に重症であった区では、必然的に治癒率は悪くなります。
さらにたびたび指摘していますが、審査専任委員の全てが西洋医で占められており、報告を取りまとめた編輯専任委員が東大派閥の石黒忠悳です。データを同一の条件下で平等に評価したかというと、それは疑わしいと思われます。また反面、この試みに漢方に対する西洋医学の圧倒的優位性を示す意味があったとすると、ある程度偏った審査・評価をもってしても、漢方の健闘により思ったほどの差をつけることができなかったともいえましょう。しかしながら、官僚すなわち東大派閥の進める政策と、秘伝として遠田澄庵が脚気の治療法を明かさなかったように、漢方医そのものの閉鎖性も相まって、漢方は自滅の道をたどることとなります。
かくして鳴り物入りで設立された脚気病院も、脚気の原因追究、確実な治療法の発見など、充分な成果を上げることなく、あるいは市井の興味の対象であった漢洋いずれにも軍配を上げることなく、明治15年に廃止されます。


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