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対話随想 №46 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 八月四日は、そんなことですっかり疲れてしまい、外で夕食を食べる気にならず、コンビニでおにぎりを買い、ホテルの部屋でぼそぼそ食べながらテレビを見ていましたら、先ほどの録画がNHKの地方ニュースの中で出てきました。私の顔を見て驚きました。まあ、ひどい顔。皺だらけで、まぎれもない「ババア」。テレビカメラは容赦ありませんね。やれやれ。
 五日午前中に、鯉城同窓会に参りました。鯉城同窓会の事務局の久保木さんは、とても同窓生の資料の保存に熱心です。≪45≫で書いた「紫雲2号」について、鯉城同窓会で保存したいと言っておられたのに、私が図書館の方を選んだので、そのお詫びです。問題の『ある悔恨』と、筆者と思われる宮本恭輔さんの作品はコピーしてありますので、それを同窓会館に贈ることを申しました。それから、ほかの資料についても相談いたしました。私は、そうした昔の生徒たちが作った雑誌や新聞など学校の図書室で保存しているものと思っていたのですが、どうも国泰寺高校の図書室はそうしたことにあまり熱心でないように思われたので。久保木さんのお話では、昔、国泰寺高校の図書室はとても大きかったらしいのですが、校舎の改築?(模様替え?)の際、小さくなってしまい、様子が変わったということです。今時、図書室を大きく充実させるならともかく、小さくしてしまうなど、あまり聞いたこともなく、驚きました。そういえばずいぶん前の話ですが、私のクラスメートから国泰寺高校の図書室が大きくなり内容も充実させるので、卒業生たちの作品等も揃えたいという話があり、私から中山さんにお願いして、出版されている作品を送っていただいたことがありましたね。その図書館が年月を経て、“小さくなった”ようです。
ともかく、同窓会館には展示に使える広い部屋もあり、そうした資料も大事に取っておく、卒業生の中には図書館に勤めた司書資格のある方も多く、その方々に整理をお願いしているということで、安心しました。ただ、前から感じていることですが、資料の保存ということに関して、あまりに関心が薄い方が多いことです。本当にこれは問題ですね。その意味でも昨日行った広島中央図書館の対応はとてもうれしかったです。 
 午後、建物疎開作業で亡くなった少年少女たちの慰霊碑巡りのフィールドワークです。今回は私が拙著『ヒロシマの少年少女たち』で問題提起した、遺族年金支給のとき外国籍の人が切られたことで、朝鮮半島出身者が死者の数の中に入っていないこと、その人々が国民学校高等科の生徒で、慰霊碑さえもないことなどを訴えたくて、フィールドワークの前に説明の時間をとっていただきました。主催のYWCAの方々のお骨折りで、平和記念公園に近いところでお部屋を借りることができました(多分ご厚意で無料)。
 フィールドワークには、毎回思いがけない方々が来てくださるのですが、今回、亡くなった西組の級友の親戚の方や、今田耕二さんの奥様も来てくださったのには驚きました。今田さんは、たまたまほかの用もあって、兵庫県から来ておられ、参加されたようです。今田さんとは本当に長い付き合い、いろいろお世話になったのですが、奥様とお会いするのは初めてです。
NHKや例のドキュメンタリ―映画の撮影者も見えて、会議室はぎゅう詰めです。私は懸命に疎開地後片付け作業のことや、それにまつわる問題点を説明しました。慰霊碑巡りですから、慰霊碑の説明をしますが、慰霊碑もない、いや名前も数もわからなくなっている少年少女がたくさんいること、だからこれから回る平和大通りや旧雑魚場町には、これらの生徒たちをしのぶものは何もないが、これから歩く道にはその子供たちの血や汗が染みているはずです、もしかしたら道の下に、まだ骨があるかもしれない。それを偲んで歩いてください、とお願いしました。
この日は猛暑、かなりきつかったです。参加者も四〇人で多かったし、時間内に終わらせるのは大変で、早足になります。フィールドワークの終わりに、私は思わず、「みなさん、今日は暑い中を歩かせてしまい、ごめんなさい。でも私のクラスメートたち、一二,三歳の子どもたちは、この暑い中、炎をくぐり、焼けて熱くなった道を逃げ惑ったのです」と言ってしまいました。
 この後、私はドキュメンタリー映画の方々に、私の母校の碑文の前で語るはずでした。碑文は「殉国学徒の碑」とあり、「純真な愛国の至情」で犠牲となった「英霊」と称えられています。私はその前で「殉国の至情」とは何かと疑問を呈し、中山さんが第2集の中で書かれている言葉(34ページ)「六十八年経った今も、被爆者たちは後遺症に悩まされながら生き、やがて訪れてくる死を待つのみですが、国家から欺かれた生涯だと考えざるを得ません。戦争と同じく国策によって推進された原発も、同じ道をたどるような気がしてなりません」という文章を読もうと思っていました。ところがこの日、近くで工事をやっていて、音がやかましく入ってきます。監督は「ここでは音が取れない」と言われます。やむなくホテルに行くことにしました。この日、私は宿が取れず、撮影スタッフの方々がとったホテルで、その一部屋を分けていただいたのですが、そのホテルにタクシーで向かいました。私と製作者の矢間さんが乗ったタクシーの運転手(女性です)、どうも変なのです。妙に道を曲がりやたら時間がかかります。おまけに喋りまくるのですが、右翼的で、日本も核兵器を持つべきだ、など言うのです。驚き、不愉快になりました。タクシー代も2000円くらいかかり、私驚いたのですが、物を言う元気もない。ホテルでまず水を飲んだのですが、ぐっしょり汗をかいていたので、なんだか寒くなり、変な具合です。
スタッフの部屋で私が話し、それを撮影するのですが、一応,「殉国」への疑問と中山さんの文章は読んだのですが、あとはレロレロです。大庭さんのことも説明したのですが、わかっていただけたかしら。とにかく私は寒くなってしまい、部屋に引き上げ、そのまま風呂に入りました、衣服を脱ぎ棄てると汗で「搾れるほどぐちゃぐちゃになっているので驚きました。かなり長時間風呂に入りようやく寒さが取れました。でも、もう、夕飯など食べる気もなくそのままベッドに転がっていました。
 六日朝。NHKの方と七時半に国泰寺町の第二県女の慰霊碑のところで会う約束です。起きて身支度を済ませるや否や飛び出しました。このホテル朝食付きなのですが、食べている暇はありません。タクシーに飛び乗り急ぎました、驚いたことにあっという間についてしまい料金は八二〇円ほどでした。昨日のあの女タクシードライ―バー何だったのだろう、またまた腹が立ってきました。
NHKの若いアナの方はもう来ていらして、会場の椅子運びを手伝っておられます。彼は少し緊張気味で、自分は鳥取局から手伝いに来ていて原爆のことも大して知らず、勉強中です、と控えめです。自分の駆け出し時代を思い出して好感が持てました。式の参加者で会場が込みだす前に、リハーサル。式典の放送のあとに、周辺の模様が入るようで、私の昨日のフィールドワークの説明があり、私が最後に叫んだ「少年少女たちはこの炎天下、炎の中を逃げたのですから」といった録音が入り、そのあとに私が1分少々しゃべるのだそうです。ヒバクシャが望むのは核兵器の廃絶、遠い夢ではなく今すぐに、と申しました。テストしてみて、OK,この調子でいきましょうということになりました。
人が続々きます。山中高女の生き残りの方が挨拶に見えます。毎年来ていて私のことを覚えておられるようです。NHKの方に、当時のこといろいろ語られます。食べるものもなく、食べた雑草のこととか、何年たってもあの日のこと、戦中の暮らしのつらさは忘れられませんね。第二県女関係も去年より多かったようです。昔のクラスメートの親類の方とか。思いがけない新しい顔もあります、うれしいのは下関の河野睦さん、この方、原爆の一週間前くらいに転校してこられて「東組」に入り、東練兵場で被爆。(もし西組に転入したら間違いなく死んでいます。)戦後すぐ下関に帰られ、第二県女の思い出は一週間しかないのです。それが何年か前、私の本のことでこの雑魚場の慰霊碑のことなど知られ、毎年見えるようになりました。下関でヒバクシャの会でご活躍、下関の方々も毎年広島に来て展示などをなさるので、その前にまずここにきて、と言われるのですが、なかなかできることではありません。東組と西組が生死を分けたことの不思議を私の本で知り毎年、熱心にお参りしてくださいます。
福山から平賀(水木)栄枝先生。戦前山中、戦後は第二県女の先生、二つの学校に関係していた珍しい経歴で、再編成後は中学の教師を選ばれ、国語の先生として生涯を貫き、そして今もお元気なのです。昨年と少しも変わりません。昨夜NHKで私のフィールドワークの様子を見たと言われ、「良かった。ありがとう」と手を握ってくださいました。先生お幾つになられました、と聞いたら「数えで九十五歳よ』。「先生百まで頑張りましょう!」と思わず言ってしまいました。
八時十五分、原爆投下時間、中央公園の収録を終えて周辺地区の模様の中継、いよいよ本番です。なんとか一言を短く入れ、無事終了。
あのNHKの若いアナの方はその後私に葉書をくださいました。「原爆のこともあまり知らなかったが、本当に勉強させていただきました。これからも学び続けかかわっていきたい」という真摯なお手紙でした。私、このごろいろいろ取材されますが、取材者からお礼の手紙をいただくことはそう多くはありません。とてもうれしく思いました。NHKも会長問題などで、近頃評判悪いですが、こうした若い方がいっぱいおられるということに、未来への希望を持ちました。
六日朝の「スケジュール」もすっかり終わって、急にお腹がすいてきました。考えたら昨日、早昼を食べた切りです。お腹もすくはず。東京から来た大学生、堀池美帆さんもまだ朝ご飯食べてないというので、一緒にファミリーレストランに。
堀池さんとは彼女が高校一年生の時広島で初めて会いました。原爆や戦争のことに熱心な高校生に驚きましたが、次の日(八月六日)資料館の前で外国人の人をつかまえては平和をどう思うとインタビューしている姿を発見、またびっくり。以来の付き合いです。毎年広島に来、私のフィールドワークにも何度も参加、東日本大震災ではボランティアに行ったり、とにかく積極的です。でも、高校では「変わり者」だったらしく、文化祭では戦争と平和の問題をテーマにしようとして否決されたと残念がっていましたが、めげず、立ち向かっていく強靭なばねのようなものも持っています。二人姉妹ですが妹は私と違い、社会問題に興味を持たないと言っておりましたが、その妹さんをだんだん説得したようで、今年の広島には妹さんを連れてきました!びっくりしました。
この日、妹さんは平和公園におり、自分は雑魚場に来たと言いますので、一緒にご飯を食べました。その後、中央公園に向かい、そこで妹さんを探す彼女と別れ、私は資料館に行き学芸課の落葉さんに会いました。
実は、私、今回フィールドワークのことをNHKだけでなくいろいろのところから取材されたのですが、その方々から聞いた話で、資料館から出ている数字で「ヒロシマ原爆で死んだ学徒は七二〇〇、うち建物疎開作業の学徒は五八四六人」とあるのだそうです。この数字を出せば、「いかに建物疎開作業の学徒の死が大勢かということが分かりますね」と言われたので、「ちょっと待って」と言ったのです。建物疎開作業の学徒の死が五八四六というのは少なすぎますが(それは朝鮮半島出身者を除いたため)とにかくこれが資料館の公式数字です。しかし、広島の勤労学徒の死を七二〇〇人というのは多すぎます。建物疎開以外の死亡学徒が一六〇〇人以上ということになりますが、これは変です。
学徒の勤労動員は工場が主ですから、広島ではほとんど周辺地域に位置し、死者は少なかった。中心部にいたのは師団司令部、貯金局、電話局など事務作業の職場、女子学生が多いところで、どう見積もっても数百人です。
 私は、これは日本中の工場動員勤労学徒で空襲で死んだ数ではないかと考えました。準軍属認定運動のとき、全国の死亡勤労動員学徒の遺族と連携し運動し、これらの犠牲者も準軍属と認定されました。その数字が間違って伝えられたのではないかと思うのです。全国の工場等の空襲で死んだ学徒は豊川海軍工廠、光海軍工廠、大阪造兵廠、長崎の原爆で犠牲になった学徒等が多いのですが、これらを集めても千数百人、ほかの死亡者と合わせて一六〇〇人くらいだろうと思えます。
 落葉さんの話ではこの七二〇〇人という数は、二〇〇四年建物疎開作業で死んだ学徒の企画展をやったときのリーフに乗っている数で、それがそのまま残ってしまったようです。私は七二〇〇人という数は全国の勤労学徒の数であろうということを説明し、修正してほしい旨を申しました。とにかく広島原爆のことに関しては全国の方が広島の資料館を信頼しておりますので、落葉さんにしっかり訴えました。予約もなしに行ったのに、時間を都合して会っていただきました落葉さんに感謝です。
 それから外に出てぶらぶらしているうち知った顔に会い。堀池姉妹にも会い、皆で昼ご飯を食べました。この日は大分疲れましたので、ここでいったんホテルに帰り少し休息。  夕方、五時に灯篭流しの受付のところで例のドキュメンタリーの人々と会う約束をしていますのでタクシーに乗り「灯篭流しの受付」と言ったら「知らない」というのですね、灯篭流しは知っているけれど、どこに受付があるか知らないというのです。昨日のタクシーのこともあり少しいやになりましたが、とにかく元安橋に行って、と少しきつい調子で言ってしまいました。
 元安橋のあたりは人だかりでにぎやか、死んだ人の魂に送る灯篭流しがまるでお祭りのようで、少し腹立たしく思えましたが、西名みずほさんも来てくださいましたので、灯篭に大庭里美さんの名前を入れることをドキュメンタリーの製作者たちに承知してもらったことを報告しました。灯篭は4面あります。最初の面に「安らかの眠れません」と書き次の二つの面に「核兵器廃絶/全原発廃炉の日まで」、そして最後の面に「大庭里美」の名を入れ、その下に、「あなたも安らかに眠っていないでしょう、怒り続けていてください」と書きました。
制作の矢間さんも監督の原村さんも、昨日、西名さんからもらった大庭さんの資料を読んでいただけたようで、なぜ私が大庭さんの名を灯篭に書きたいか、思いが分かっていただけたようです。とにかく彼女は、ヒロシマのヒバクシャの大多数が核の平和利用に酔っていたころ、孤軍奮闘原発の危険性を叫び続けていた人、もし彼女が生きていたら彼女こそドキュメンタリーに出演すべき人なのです。昨日私は体調不良で最後の方はしどろもどろになってしまったのですが、原村監督は「この灯篭であなたの思いは伝わりますよ」と言ってくださいました。
 
 二〇一六年夏の広島、やるべきことはやり、充実した五日間でした。
しかし、広島に対しては、腹立たしいものを感じました。今年の広島は確かに人が多かった。オバマ効果ですか、外国人の数も多く、子ども連れが目立ちました。オバマ効果で子どもたちにも広島への関心を呼んでいるとしたら、これは確かにいいことでしょう。しかし、広島市は「原爆商売都市」になっているのではないかとさえ思いました。ホテルはバカ高く(昔から広島は八月五日はホテル難で高いのですが)、一部かもしれませんが、タクシーの人は原爆のことをあまり知らない。不勉強としか思えない。一番はらだたしかったのが、「折り鶴タワー」でした。
 折り鶴タワーと聞いた時、市の施設かと思ったのですが、商業ビルのようです。平和公園のすぐ近くに建ったの背の高いビルで、折り鶴の碑を見下ろすようだと、建設の前から反対をする人もいたようですが、とにかくよく目立ちます。この日行ってみた市民の人が怒っていたのですが、この背の高いビルにエスカレーターで入るのですが、これで入場しようとすると入場料(エスカレーター代)一七〇〇円もとられるのですって。それで折り鶴を折りなさいと紙を渡され、3枚折って、ビルに取りつけられた巨大な箱のようなものに折り鶴を投げ入れると、ハイ。五〇〇円。何だ、これは、と皆、かんかん怒っていました。私、聞いただけで呆れて行きませんでしたが。
 六日の市長宣言にしてもあまりにお粗末で、長崎の市長宣言、市民の言葉が立派だったので、少し恥ずかしくなりました。
 広島は原爆商売都市になってはいけません。観光地でなく、核兵器廃絶、恒久平和のために闘い抜く都市であってほしいのです。これでは、私、本当に、「安らかに眠れません」。

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    対話随想を終えて

 対話随想46えらく長くなりましてすみませんでした。報告したいことがありすぎました。これで「対話随想」編を終わりにします。この対話随想編、「往復書簡」の第3集として本にいたします。1集、2集と同じ西田書店から出版します。たぶん、年末ごろになると思います。
 はじめ、私たちの手紙のやり取り、今夏をもって終わりにしてもいいと思っていたのですが、さまざまなことがあり、まだまだ書きたいことが残っています。今しばらく、このブログをお借りして書き続けたいと思います。資金のこともあり、3集までは出版の予定ですが、この後は無理かもしれません、先の予定はわかりませんが、「続・対話随想」として書かせていただきます。このところ多忙で執筆が遅れている丸木美術館の岡村さんのエッセイもまた入ってくることになると思います。次回からの「続対話随想」、よろしくお願いします                    関千枝子 中山士朗


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