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対話随想 №45 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 広島に八月三日から七日まで行ってきました。今年の広島は大変な炎暑、それにスケジュールが過密だったものですから、体力の限界、「ヘロヘロ」といった感じで帰ってきました。なるべく約束の仕事も断わって、家にいるようにしたのですが、留守中のコンピュータのメールを見るだけでも時間がかかり、家にいてもあまり静養にならず、計画はすべて遅れ遅れで、「トシ」を感じながらこの文章を書いています。 
 前回、前々回にからんでご報告すべきこともたくさんあるのですが、これは後程改めて書くことにしまして、二〇一六年八月六日前後の広島の報告にしぼらせていただきます。
 
 八月三日に広島に入り、広島駅からそのまま可部線に乗り換え緑井に参りました。これは前にも書きました、国泰寺高校創設の年(一九四八年)私が文芸部の私部長をしているときに出した雑誌「紫雲」の第2号に出た小説「ある悔恨」のことで、緑井に住む医師・高橋真弓さんと親しくなり、彼女がぜひ今年も会いましょうと言ってくださいましたので、彼女のクリニックがある緑井に行くことにしたのです。私、堀場清子さんのおじいさまの今井病院があったということで緑井に、一度行ってみたいと思っていたのです。今井病院が原爆のとき、大勢のけが人が運び込まれ、堀場さんもにわか看護者になり大奮闘された話を聞いていましたから。
 緑井は、今は広島市内(安佐南区)ですが、昔は可部の近くで遠いところという感じでした。いまでも電車で20分くらいかかり、かなりありますね。堀場さんによると、すぐトラックでけが人が運び込まれたといいます。何事が起ったかわからず、大騒ぎをしているうちに、けが人が運び込まれてきて、収容所になってしまった。東京の女学校から広島第一県女に転向された堀場さんは体調を崩し、おじいさまのお家で静養しておられたらしいですが、非常事態に少々の悪さなど言っておられませんね。大やけど、大けがの人々、まだ15歳の少女に、どんなにショックだったか。
 今井病院は今存在しませんガ、その跡地にやはり病院が経っています。大きな病院です。今井病院がいかに大きな医院だったか分かります。当時、まだ本当に田舎町だった緑井で、今井病院だけが頼りと、次から次へ病人が運び込まれたのでしょう。
 緑井の街を高橋さんに案内していただき、そのまま車で広島まで連れていっていただき、この日は一日、高橋さんにお世話になってしまいました。
 四日はまず広島中央図書館に行きました。「原爆を伝える――次世代につなぐヒロシマ・ナガサキの本」という企画展をやっており、その中に、私が寄贈した「紫雲」第2号も展示されているというので見に行ったのです。
 「紫雲」は割合大きくスペースをとって、展示されていました。解説の文章を付け、「紫雲」の実物を展示、中を開けて見ることは難しいだろうということで、「ある悔恨」の部分を大きくコピー、読みやすくし、展示してあるという配慮のされ方でした。説明はそう長くはできないので、多分この小説の実際の体験者であろう原邦彦さん(一中の倒壊校舎の生き残り、原民樹の甥)のことは書いてありましたが、実際の作者である(と思われる)宮本恭輔さんのことは書いてありませんでした。しかし、まあ、これは仕方ないことでしょう。宮本恭輔さんは一介の町医者。しかも割合早い時期に東京に出て、広島で彼のことを知る人も少ないのですから。
広島市中央図書館の方は大変丁寧で、私が来ていることを知ると、担当課長や担当者が来てくださり、話をしました。このあと、私はで資料を調べるために、七日にも図書館に寄ったのですが、この時は副館長さんが出てこられて、一九四八年にこのような作品が高校二年生の手で書かれたことの意義をよくわかってくださり、永久に保存すると言ってくださいました。この「紫雲」2号に関しては、鯉城同窓会でも欲しがっていたのですが、やはり市立図書館に寄贈してよかったと思いました。(多くの人に読まれ利用されること、あの当時の紙質の良くない雑誌ですから、保存を考えると図書館が一番です)。
 図書館からNHkへ。あなたのところにも取材にいらした出山さん、あの方が私の建物疎開の少年少女たちに拘っているのをよくわかってくださって今回全面的に協力取材してくださいました。この日にスタジオで撮影。五日のフィールドワークも初めから最後まで撮影してくださり、さらに六日、わが校の慰霊碑のところでラジオの取材もあるというのでびっくりです。
 スタジオの撮影は、『第二県女二年西組』の一節(ごく短くですが)の朗読もあり、以前の私のフィールドワークの写真なども入って私、少々びっくりいたしました。ニュース(広島ローカル)の中に入るので、そう多くのことは語れないのですが、とにかくリハーサル一回でうまく?収録できました、そのあと出山さんに予定を聞かれ広島テレビに行くと言い、話しているうちに私がお会いする予定だった西名みずほさんを、出山さんがよく知っておられることが分かり、びっくりしました。
 西名さんは、大庭里美さんの娘さんです。第2集の終わりの方(163ページ)に大庭里美さんのことを書いているのですが、ご記憶でしょうか。

 これも前にご報告したと思いますが、「シロウオ」という原発立地を断念させた町のことを書いたドキュメンタリーを製作した人々が、その第2弾を描いた映画の製作をめざしています。その製作・脚本の矢間秀次郎さんから、ヒロシマからフクシマ、といった構想の第2作を作るので、私の五日のフィールドワークを全部撮影したいという申し込みがありました。さらに私に六日の夜の灯篭流しに参加してほしいというのです。私、この方々の原発に対する強い気持ち、よくわかり、ドキュメンタリ-の製作には大いに賛成しますが、広島のヒバクシャたちは、原発に賛成し、核の平和利用はいいことと思い、原発の安全性を疑わなかった人が多いというのも事実です。私にしても、割合早くから原発に疑問を持っていましたが、決して十分な抵抗記事を書いたかというと、ジャーナリストの端くれとして自責の念すら持っています。(第2集の51話「無名の死者への詩碑」で書いた通りです)。そんな時代から核や原発に対し、先駆的な運動を広島で、孤軍奮闘頑張っておられた大庭さんに、あまり援助することもできませんでした。大庭さんは、二〇〇五年急死されるのですが、その後、大庭さんのグループ・プルトニウム・アクション・ヒロシマとも連絡がつかなくなり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 そんなことを矢間さんに申し上げたのですが、大庭さんと言っても誰も知りません。私のフィールドワークは、原爆のときに建物作業で死んだ少年少女たちのことですから原発には直接関係ないからとお断りしたのですが、かまわない、と言われます。結局、灯篭流しの灯篭に大庭里美さんの名前を入れることを承知してもらったのですが、これでいいのかなと忸怩たる思いがありました。
 ヒロシマ行きも迫ったある日、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんから手紙が届きました。この方は、最近「証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町」というパンフを出され,いただいたので、私たちの「往復書簡」をお送りしたのですが、大庭さんの記述を読み、驚いてわたくしに手紙を下さり、大庭さんの娘さんの西名さんのことを教えていただいたのです。
 私も驚き、西名さんに連絡、この日会いに行くことにしたのですが、出山さんと西名さんが知り合いとは知らず、本当に驚きました。出山さんも驚いて私が広島テレビまで行くというと、NHKから広島テレビまで歩いて十分くらいの近いところなのに、「暑いから大変です」とタクシーを呼び、広島テレビまで送ってくださいました。
出山さんは、若いころ、大庭さんを取材したことがあり、大庭さんのことをよく知っておられるのです!
 西名さんと会えて本当によかったです。西名さんがお母さんの思いをきちんと受け継いで、「平和のことにとても熱心なアナウンサー」として頑張っておられることもわかりましたし、プルトニウムアクション・ヒロシマも、その流れを受け継いでいる人々が地味ながら活動を続けておられることもわかりました。灯篭流しの灯篭に、大庭さんの名前を入れることも承諾をいただきました。
 ごめんなさい。実はここから後が本当に書きたいことなのですが、もういつもの倍近くは学なってしまいました。ここまでを前編としてもう一度続きを書かせていただきます。


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