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高畠学 №62 [文化としての「環境日本学」]

環境保護には知的エリートが必要 1

                      中国共産党機関紙「光明日報」記者  馮 水鉾

 私たちが山形県高島町に行き有機農業を視察したのは、一人の詩人がいたからである。
高度経済成長の時代にこの土地の農民たちは気がついた。日本の急速な工業化は農業と農村を席巻し、農業は一種の工業へと化す - という問題である。土地は商・工業資本にコントロールされ、農民は農業労働者と化す - 彼らは自分たちの地元で〝農業労働者〟となるか、或いは都会に出稼ぎに行くかである。土地は尊厳を失い始め、農民も尊厳を失い始める。

 詩人・星寛治氏は敏感な心でこの問題を捉えた。彼は自分の地元の三八人の若者を招集し、「高島町有機農業研究協会」を立ち上げた。彼らは伝統農業の尊厳を回復させたい、古くからの農村文化を継承していきたい、と考えた。そして田畑を健康で活力のある状態に保ち、村の自然、村人たちの率直さ、臨機応変さ、調和、お互いに親しいこの社会の特徴を保護していきたいと考えた。

 有機農業は難しい農業である。農薬と化学肥料を使わず、土地が本来持つ生産力に依存する。作物自身の被害に対抗する力は確かに低い。化学肥料はやはり農業を便利で容易なものにしてくれ、重い労働を軽くし、利益を大きくする。一方有機農業は農民たちを重い労働のなかに再び戻した。当時の農林水産省は高畠での試みと粘り強さをとても煙たがった。当時の政府は農業の工業化を一心に考えていたからである。

 星寛治氏の詩人という肩書きは彼自身を大きく助けた。彼の書いた詩は東京の文化界でも知名度があり、このことから彼らの村で生産された作物は、都会の消費者との消費提携の形態を獲得した。これらの人々には環境保全グループの人や文化界の先進的思考の持ち主たちを含んでいた。これらの消費提携は彼ら農業従事者を大きく助け、彼らの再生産を保証する利益をもたらすものとなった。

 一九七四年、著名な作家、有吉佐和子が『複合汚染』という本を書いた。著書では星寛治氏の故郷がモデルとなっており、彼らの粘り強い有機農業への取り組みと社会のなかで遭遇した苦悩が描かれている。この本の内容は、当初、新聞紙面での連載から始まったもので、当時の日本社会に与えた影響は非常に大きかった。新聞に掲載されて以来、原剛教授のような鋭い環境問題を追う記者は、日本の有機農業の発展経緯を追跡取材し始め、日本の有機農業がすでに全国化している現在も一途に追跡し研究を行っている。

 一九七四年、日本のある代表団が中国を訪問し、団員のなかの一人に中村という人物がいた。彼は、〝三八人の若者″のなかの一人である。星寛治氏は中国を訪問したことがあり、当時の彼の肩書きは〝農民詩人″であった。日本の有機農業の代表的村となった高畠が〝メッセージの強い発信能力″があるのは全て星寛治氏の存在と強い関係がある。一九七九年、星寛治氏の故郷高畠町では「町民憲章」が作られ、星寛治氏もこの憲章の製作者の一員として、この憲章の第一条に自然保護と伝統文化の保護を強調した。

 三十数年かかって、日本の有機農業は現在の規模にまで発展した。一人の人間が行動を起こすことだけで社会全体にもかなり重要な作用を及ぼす。星寛治氏は有機農業を始めるために、〝柔軟な土地〟から〝健康な食糧〟を育て、その富力と文化力を回復させ、田畑が経済を支えると同時にこの土地の伝統文化を継承し、農業に質の高い文学性をもたらした。その頃、天の人物が冷静にその様子を見つめていた。菊地良一氏である。化学の方面の専門家である彼は、三八人の若者を心配そうに見ていた。有機農業は老人、女性に対し、たくさんの重労働を課しているからである。彼にはフェミニズムの思想があり、女性はあらゆる虐待を受けるべきではないと考えていた。そこで彼は一種の毒性の低い農薬を発明し、それは、ただ一度その農薬を撒けば田んぼの雑草を除去し、作物自身の抵抗力も強化するといった所を持っていた。このことから、高畠の有機農業は二種類のタイプに分けられた。タイプ一として純粋に有機無農薬栽培されてできた米は六〇キログラム三六〇〇〇円で売れる。菊地良一氏の発明した農薬を一度使用したタイプだと、六〇キログラムの米を二六〇〇〇円で売ることができる。ちなみに、有機農業米ではない場合は一六〇〇〇円程度である。彼の発明は多くの人々を有機農業に参加させやすくした。

『高畠学』 藤原書店


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