SSブログ

対話随想 №43 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 すみません、あまりいろいろあって、忙しく、手紙を書くのがすっかり遅くなってしまいました。
 この間、第二集への反響や、そのほかご報告すべきことがいろいろあったのですが、なんだか頭がぐちゃぐちゃで、訳が分からなくなりました。それで、そのあたりは一切省いて、また思い出したら、順次ご報告することにして、六月末広島に行ったことを中心に書きたいと思います。
なぜ、六月末に広島に行ったかと言いますと、何度もこの往復書簡で話題に上ります、竹内良男先生が、ことし、駒込で、東京にしては安い貸し会議室を見つけ、月一回くらいのヒロシマ連続講座を開催しておられるのですが、そのからみで、韓国人被爆者問題で広島でフィールドワークがあったのです。
 なぜ韓国人問題ということになりますと、説明が長くなりますので省きますが、私、昨年出した「ヒロシマの少年少女たち」(彩流社)で、建物疎開作業で死んだ少年少女たちの中で朝鮮半島出身者が消されていることにこだわっているのですが、戦争末期の韓国人強制労働連行者の中に父の会社に連れてこられた人がかなり多くあったことに、今更のように気づき、これにまたこだわっているのです。父の会社は陸軍の港宇品港の運輸を取り仕切る会社でした。ここに一九四四年になって父が三菱から出向したこと自体、相応の意味があったことかもしれないのですが、それは置いて。私が父の会社に強制連行の労働者がいることに気付いたのは、原爆の日、家の外回りの片付けに何人かの朝鮮人労働者がきたからです。
 このあたりのことを書くと長くなりますから、それはまたの手紙で話すとして、私はこのフィールドワーク(その前に会ったお話を聞きたかったのですが)この際広島に行き、さまざまな懸案を片づけようと思いました。 
 ところがこれが大変で、まず、ホテルが取れないのです。なんだかいま広島、オバマブームとカープブームで大変なのだそうで、土曜日はどこのホテルもいっぱい。広島の方の協力でようやく見つけたのですが、大変でした。何だろうと思いましたが、6月なのに、資料館も外国人でいっぱいでした。外国の方もオバマ広島訪問で広島に関心を持ったなら悪いことではないかもしれませんが。
 ホテルが取れたところで、この際、懸案をいろいろ片付けようと、もう一泊し、いろいろ『仕事』をしました。
その中で資料館に行きまして,訴えたことだけを報告したいと思います。
 資料館は、今リニューアル中ですが、リニューアル後、建物疎開作業で被爆した勤労動員学徒のコーナーが常設されるということは聞いておりました。資料館は、二〇〇四年にこの問題を取り上げ企画展をしましたが(地下の展示室で)、以来この問題に知らん顔なのはひどいと思いました。、今、広島の中学生たちがこの作業のことも自分たちと同じ年の子どもが六〇〇〇人も死んだことも知らないのは資料館の展示にも問題があると思いました。
 この問題にこだわり調べた「建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会」の楠忠之先生たちは、昨年、資料館に行かれ、よいコーナーを作るよう申し入れされ、私の本や今田耕二さんの自分史も資料として提出されたそうです。コーナーができるのは本決まりのようですが、その後どうなったか、ぜひきちんとしたものを作ってほしいと思い、直接資料館と話をしてみたいと思ったのです。
 予約もとってなかったのですが、広島の新聞記者のお友達の力添え、特にNHKの出山さんは、自分で資料館と交渉してくださいまして、副館長兼学芸課長の加藤秀一さん、学芸課長補佐の宇多田寿子さん、学芸員の落葉裕信さんにあいました。出山さんは最初の三〇分間同席してくださいました。(仕事でやむなく途中退席されましたが)。
 少年少女のコーナーができることはいいことで、うれしいと言いますと、コーナーはできるが、壁面が少なくて…・という風なことを言いますので、それは捨てて置き
◇二〇〇四年の企画展のときの数字はめちゃくちゃ、県庁付近や土橋で生存者がいるはずがない◇数が合わない死者の全部を朝鮮半島出身者とすることは無理があるかもしれないが、相当の数が朝鮮半島出身者であることは間違いない。その氏名の全部をこれから調査するのは無理だが少なくとも一〇名はわかっている(『ヒロシマの少年少女たち』を参照してほしい)、資料が少ないというが、資料館で見せている焼けた下駄、衣類、黒こげの弁当箱などすべて作業の犠牲になった少年少女の遺品、ばらばらに置くから訳が分からないので、一緒にちんれつすればいい。
など、言いたいことはすべて言ったつもりです。よく聞いていただけたと思います。楠さんも心配して会談中に携帯電話をくださったり、大変でした。九〇歳にしてこの頑張り、私などもっと頑張らなきゃあと思いました。
 とにかく、建物疎開で死んだ少年少女たちのことをもう少し、知らさなければという思いは、コーナーができたら何とかなると思います。そして、あの前日、一緒に働いていたであろう朝鮮半島出身の子どもたちのことを、日本人が忘れてしまっていることに胸が痛みます。この子どもたちのことがきちんと歴史に残したいと、痛感するのです。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0