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ウルトラマン50年 №5 [雑木林の四季]

「ウルトラマン50年」第五回  ウルトラマンよ何処へ行く  

                                映画監督  飯島敏広+千束北夫 

 7月10日はウルトラマン50年目の誕生日ということになっています。1966年7月10日(日)午後7時TBSからJNNネットワークを通じて全国放送された「ウルトラマン前夜祭」杉並公会堂中継録画放送に、はじめてウルトラマンが登場したからです。 もっとも、予告編的な番組だった「前夜祭」ではなく、「ウルトラマンシリーズ」の第一話「ウルトラ作戦第一号」(円谷一監督)が放送された7月17日日曜日が本当の誕生日であるという人たちもいます。
 この7月10日には、50年前と同じ杉並公会堂で、「ウルトラマンの日in杉並公会堂」と題して(なんと二回興行!)で、ホール満席の観客を前に、いまや、レジェンドと称される放送開始当初の科学特捜隊メンバーを演じた、黒部進、桜井浩子、二瓶正也、の諸優に加えて、隊のアイドル少年ホシノ君の津沢彰秀(敬称略)、そして、今回呼び物のゲスト「ウルトラマンになった男」古谷敏、現在も特別顧問として円谷プロに在籍する満田穧監督、そして最初に三話まとめて監督した縁で、私も舞台に並んで、50年前の回顧映像を背景に、TBS安東弘樹アナウンサーの司会によるトーク・ショーが行われました。隊員の一人だった毒蝮三太夫(石井伊吉)とナレーションの石坂浩二のビデオ参加などがあって、フィナーレに、ウルトラヒーロー大集結!と銘打たれた全43体のウルトラマンと怪獣たちのバトルが、大音響の電子音楽とコーラス、眩く交錯する光とむせ返るほどの硝煙スモークの中で、ほとんどアクロバティックと言ってもいいウルトラマン達の激しくスピーディーな動きで展開され、場内の熱気は、大変なものでした。 
 しかし、私の感慨をあえて申し上げると、ラストの煌びやかなショーの最中にも、なぜか、沈潜していたのです。
 トークの中盤で、場内の子供達には、ウルトラマンに人間がはいって演じているという事実を知らせてはならない、という円谷プロの矛盾した社命を背負っていながら、今や壮年に達した往年の子供達である観客の希求を満たす為に、50年後の現在も保っているスレンダーな体型で着ぐるみに入った古谷ウルトラマンが登場したのですが、やや前かがみの、昔ながらのスペシウム光線発射の十字手ポーズを決めた時の場内は、それと知った観客の水を打ったような静けさの後から湧きあがるように大拍手が広がって、舞台上の私にも、思わず胸にこみ上げるものがありました。監督として初めてウルトラマンと対したあの時を思いだしたからです、

 まさに、50年前、初のウルトラマン公開取材が、撮影ステージで行われた時のことです。宣伝部主催で撮影所に招待された新聞雑誌各社のカメラの居並ぶ前に、撮影ステージの通用口ドアが開かれて、現れたウルトラマンは、数名の操演(飛行機や怪獣などを操る)スタッフに両手を引かれて、一歩一歩必死に足もとを確かめながら現れたのです。急迫したスケジュールだった為に、撮影する我々も、完成したウルトラマンを見るのは初めてでした。
 俳優古谷敏が入ったウルトラマンの着ぐるみは、サーフィンや潜水に使われていたゴム製ウエットスーツを改良して作られた胴体に、古代西洋の虜囚に被された鉄仮面を連想する貌が繋がっている、と言った風で、光らせるために電飾を仕込まれた両眼の小穴からは、殆んど外界を見ることが出来なかったのです。初めて監督する私も、果たしてヒーローがこの有様でまともな番組を創れるのだろうかと、思わず特技キャメラマンで実質的に特殊撮影の現場の責任を負う立場だった高野宏一(敬称略)と顔を見合わせてしまうほどに、動けず、息苦しく、見えずという代物でした。

 50年経った今、舞台上で誇らしげに当時さながらのポーズをとって見せ、賛嘆の拍手を浴びる彼に、おなじ東宝映画の朋輩俳優だったレジェンドの皆さんが、大きな拍手を送ったのも、実に、微笑ましい光景でした。当時、観客に顔を見せることのない、当時、ウルトラマンに入ることを命じられて、二枚目映画俳優の道を閉ざされた若い彼の胸の内には、別の感情があった筈です。
 ウルトラ世代の大人たちが圧倒的に多い会場で、現在のウルトラファンの子供たちの姿も、決して少なくはありませんでしたが、古谷ウルトラマンに、惜しみない拍手を送っていました。

 特設売店に並べられたウルトラマン関連グッズの数も種類も大変なもので、記念にと渡された土産袋の中のパンフを見れば、夥しい種類の玩具、ゲームや玩具ばかりか、造兵厰で正規に鋳出されたと思われる記念貨幣までがあり、某デパートでは数十万円どころか、さらに桁違いの値段で金無垢のウルトラマンまで売りだされているという話でした。
 あの頃、人気番組になったせいか、産土神社の祭礼縁日の屋台で、セルロイド製のキツネやタヌキのお面の中に、ウルトラマンのお面がぶら下がっているのに驚いた記憶がまるで嘘のようです。

 終了後、観客席にいた出版社の面々の肝いりで、近所の居酒屋に陣取ってレジェンドたちと交わした乾杯は、美味でした。今となっては楽しい懐旧となった苦労話の花も次々に咲きました。
 しかし、杯を交わし合い、酔いが回ると共に、心の底に、なにか、寂寞とした感情が湧き始めて、知らず知らずに相槌が疎かになり、沈黙が続いてしまったのです。
 「大丈夫ですか、監督・・・」
 隣席の古谷敏に気づかれて、
 「酔いつぶれないうちに帰る・・・」
みたいな、自分でも妙だなと思う言い訳を告げて、宴たけなわのうちに帰途についたのです。電車に乗っても、日曜日の夜とあって、難なく坐れました。酔いのせいもあって瞼を閉じたのですが、するとそこに、さきほどの舞台で見た、古谷ウルトラマンの姿が、浮かんできたのです。激しく交錯する閃光群の中に乱舞した颯爽たるウルトラマン達には覗えなかった、あの独特な憂愁を漂わせる、心持ち前かがみの姿勢で、例のスペシウム光線発射の十字手を構えている古谷ウルトラマンです。その姿に、一瞬の静寂があってから贈られた盛大だけれども、整然とした、拍手・・・
 「あ・・・」その時私は初めて舞台上を縦横に跳ね回る現在のウルトラマンとの違いを確信したのです。私の中に生まれた寂寞感の原因は、まさしくそれでした。
 初代ウルトラマンや、ウルトラセブンは、金城哲夫(脚本)の創造したある種の理想郷、ニライカナイから発想したと思われる絶対平和の「光の国」からやってきた「僕らのウルトラマン」でした。東京一(円谷一)の主題歌にも、そう詠われていたのです。しかし、大歓声の中で、怪獣とのバトルを展開して躍動しているウルトラマン達は、いまや、変身グッズなしでは現れることのない、バトル・スーツに包まれたマシーンに変ってしまったのです。
 「ウルトラマンゼロ」で、ウルトラマン同志の内部抗争が生まれた「光の国」は、ニライカナイではなくなってしまったのです。現今のウルトラマンは、かつての「光の国」の生命を持った宇宙人ではなく、人間のヒーローに操られる最強のバトル・マシーンなのではないか。CGその他、往年と比較にならない進歩をとげた精巧なハードを駆使した眩い戦闘シーンこそ子供たちの興奮を呼び寄せてはいるものの、もはや彼らに生命はなく、単なる最強の戦士と呼ばれるバトル・マシーンに変化したのではないか・・・
 そういえば、絢爛たるフィナーレで、杉並公会堂に響き渡ったハイテンポなテーマソングがくりかえし叫んでいたフレーズは、「光の国」ではなく、彼らを「光の戦士」と讃えていたではないか・・・会場で上映された新しい映像とナレーションでは、赤い球と青い球が交錯してウルトラマンが誕生したと描かれていたではないか。凶悪怪獣を追ってきたウルトラマンの宇宙船が、哨戒中の科特隊員ハヤタのビートル機と衝突して死亡させてしまった償いに、自らの生命を預けたというウルトラマンの基本設定も、交錯という曖昧な表現に書き改められていた・・・
 あの日の私の沈潜の原因は、それだったのです。
 ウルトラマンは、50年にして、「光の国」からの平和の使者ではなく、地球人の正義のためにバトルに明け暮れる最強の「光の戦士」に変貌してしまったのか・・・
 否、否、否。ウルトラマンの未来を信じたい・・・インド独立に尽くした絶対平和主義者マハトマ・ガンジーの言葉「An eye for an eye makes whole worlds blind」、「テロとの戦い」に手を貸すのではなく、「テロリストと話し合い、解決の糸口をさがし、説得する」のが、絶対平和主義を貫く日本の「積極的平和主義」なのではないか。かつてのウルトラマンだったら、いまこそ地球人に向かってそう唱える筈です。


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笠井康宏

こんばんは。ウルトラマンの着ぐるみを着られた方々に敬意を表したいと思います。私が高校の文化祭で、同級生のパンダの着ぐるみを面白半分で無断で着ると、汗が吹き出てすぐに脱ぎました。視界は悪く、動きづらかった思い出があります。NHKの教育テレビ「いないいないばぁ」のワンワンの着ぐるみを着た長島雄一さんは、今から8年程前、毎朝ランニング10キロメートルをされていたそうです。今は子供が大きくなり、見ていませんが。人を感動させるお仕事に改めて敬意を表します。
by 笠井康宏 (2016-07-18 20:43) 

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