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対話随想 №42 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様

                                         作家  中山士朗

 <祈>その二

 前回の手紙では、オバマ大統領演説の冒頭の言葉を引用しました。
 今回はそれに続く、<なぜわれわれはこの地、広島にくるのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について考えるためだ。一〇万人を超える日本の男性、女性、子どもたち、多くの朝鮮半島の出身者、そして捕虜となっていた十数人の米国人を含む犠牲者を追悼するためだ>という言葉の内容について、ある思いがありました。そして、<彼らの魂はわれわれに語りかける。彼らは我々に対し、自分の今ある姿と、これからなるであろう姿を見極めるため、心の内に目を向けるよう訴えかける>と言葉は続いています。
 この個所を読んだとき、<七一年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった。閃光と炎の壁は都市を破壊した>と貴方が言うとき、その炎の下には、朝鮮半島出身者のみならず、東南アジア、蒙古、中国からの留学生、そのほかに白系ロシア人、とりわけ米国籍を持つ数多くの日系二世がいたことを記憶していただきたいのです、と私はうそぶいていました。
 そうした一人に、私の広島一中時代の友人で、日系二世の被爆者である定政和美君がいます。私たちは二年生の二学期から学徒勤労動員令によって軍需工場に通うことになりました。私たちの学年は三か所の軍需工場に分かれ通年動員となりましたが、私と定政君がいたクラスは他の二学級の生徒とともに、東洋工業(現マツダ)と呼ばれていた軍需工場でした。三年生になった八月には、職域義勇隊に編成されて、一五〇名が二班に分けられ、市内中心部の建物疎開作業に交替で出動していました。
 原爆が投下された時刻、私と定政君は同じ場所にいました。
 そこは爆心地から一・五キロメートル離れた鶴見橋の西詰めで、すでに建物が取り壊され、後片付けを終えたばかりの周囲に何一つない遮蔽物のない場所でした。そこで私たちは四列縦隊で不動の姿勢を取り、工場の責任者からの訓示を受けている最中でした。
 定政君と再会したのは、一〇月に入ってからでした。
 学校の焼け跡に生き残った全校生徒が集合し、一年生の遺骨を収集した日のことでした。そのとき定政君が、
 「君はひどかったんじゃのう」
 と言ったのが、今もはっきりと記憶に残っています。
 その当時、私たちは互いの被爆以後の日常について、詳しく語ったこともなければ、たずねたりしたことはありませんでした。そして、三年後、定政君は米国籍を取り戻して生まれた国に帰ったのでした。別れの挨拶に私を訪ねてきてくれた折、
 「また、日本に帰ってくるんだろう」
と、私がたずねると、
 「いや、もう帰ってくることはないだろう」
断固とした意志が感じられる言葉が返ってきたのが、今でも強く残っています。
 「向こうに着いたら、便りをくれ」
それだけ言うのが、精一杯でした。私がそう言った時、定政君は何とも言えない複雑な表情をしました。その折の情景が、以後も私の頭の中をしばしば過ぎりましたが、その都度定政君は広島を忘れたかったのだ、と思うように努めました。
 私たちは、一緒に食事をしたり、記念の写真を撮ったり餞別を渡したりするようなことはなく、不器用に言葉を交わしただけの別れ方をしたのでした。二階の部屋から降りて道路に出ると、定政君が角を曲がるまで見送りましたが、その後姿は私の見知らない大人のものでした。同時に深く傷ついたものの孤独さが漂っているのを私は感じたのでした。
 予想されたように、その後、定政君からは何一つ音信はありませんでした。
 昭和六〇年、つまり定政君と別れてから三七年経って、はじめて消息が得られたのでした。それも、広島県呉市に在住の定政君の実兄・文夫さんを介してのことでした。
 その定政君が、三年前に広島に帰ってきました。
 中国新聞の特別編集委員・西本雅実さんは以前から定政君の取材に心を寄せられていましたが、定政君は心を固く閉ざしたままでした。しかし、このたびのオバマ大統領の広島訪問に際して、西本さんの熱意がようやく定政君に通じ、当日の朝刊に大きな記事となって掲載されたのです。被爆日系二世の苦悩の生涯が、彫り刻まれた感動的な文章だと思いました。
 「母国の原爆 家族を奪う」という見出しで、原爆ドームを背景に平和記念公園となった中島本通りで語る定政君の写真、亡くなった家族の写真が掲載されていました。西本さんの熱意によって生まれた、日系被爆二世とその家族の生涯を記憶するために、了解を得て全文を引用させていただきました。

 定政和美さん(八六)は一九四五年八月六日、母国の原爆を浴びて爆心地に入った。自宅は広島市中区の平和記念公園にあった。両親と姉の遺骸すら見つけられず、米国に帰り生き抜く。「世界の誰にも、あのような目に遭ってもらいたくない」。今日二七日のオバマ大統領の訪問を、日系二世の被爆者、再び暮らす広島で静かに見守る。
                 (特別編集委員・西本雅実)
「ここに今も眠っている気がして…・」。三年前に戻ってからは墓参に公園を訪れているという。かつての住まいは「中島本町四〇番地の一」だった。
      両親 中島に店
 シアトルで生まれ、一九三八年、両親の郷里に移った、父は先に帰郷して広島の繁華街だった中島本通りで食料品店「フジヤ」を開いていた。米国から届く新聞や短波放送に触れ、姉や兄との会話は英語。そうした日々は一九四一年、日本軍の真珠湾攻撃で一変する。戦況が追い込まれた四五年春、広島に第二総軍が置かれた。
 女学院専門学校(現女学院大学)の姉は、日系女学生に命じられた短波傍受に動員された。三つ違いの兄は一中(現国泰寺高)から海軍経理学校に進んだ。
 八月六日、母千代子さん(当時三九)は、体調を崩し、姉恵美子さん(二〇)が、一中三年の定政さんが動員先に携える弁当も作った。父米男さん(四五)は、「今日は休まんか」と声を掛ける。それが両親との別れであった。
 炸裂の瞬間は、鶴見橋西詰めで建物疎開作業の訓示を聞いていた。 爆心地の盗難約一・五キロ、気付いたら荷馬車の下に転がり、首や両手が焼かれていた。服に付いていた火を消そうと京橋川に入り、上がった。
 対岸の比治山(南区)で応急処置を受けて、中島へ。「水、水…・・」黒ずみうずくまった人たちの声が道々から聞こえた。元安川に架かる新橋は落ちていたが、偶然、小舟が下ってきた。漕ぎ手に頼み込んで、渡った。
 地表温度約三千度を超えた爆心地をこう表した。
  「人がいなかった」
 息も詰まる熱さのなか誓願寺境内(原爆資料館の南)を走り、本川左岸から中島本通りへ、瀕死の中年女性と自宅跡前の防火水槽に上半身を突っ込んだ男性を見ただけ。慈仙寺鼻から相生橋を抜け、たどり着いた己斐(西区)の親族宅で倒れこむ。
 三年後。米国籍を取り戻してカリフォルニア州の花栽培農家で働く。尽力した兄文夫さん(二〇一三年死去)は、広島に進駐した英連邦野津役を務めた。
     生きるんだ
 米国でも体のだるさに襲われた。「生きるんだ」、そのたび、夢枕に現れた両親の呼び声を独り反芻した。農園の季節労働を続けて五四年から陸軍に三年間所属し、埼玉県に駐留。原爆はタブーであり、何より話す気になれなかった。
 除隊後は米航空会社から北米に進出した日本航空に転じた。出張で訪日すると、兄に家族を設けることを促された。呉市生まれの妻と二男一女、サンフランシスコ郊外で暮らした。
 「父と母を合わせた年齢までは生きよう、と思ってきました」。原爆に強いられた半生を淡々と語った。広島へは妻敏子さん(八一)の願いから戻った。熱線の傷痕が左手に残る。
 爆心地一帯の凄まじいまでの実態を克明に知る被爆者は、数少ない。あえて証言に応じた胸の内も語った。
 「原爆の恐ろしさ、悲惨さは二度と誰にも経験してほしくないからです。戦争のない世界を心から願います」。

 西本さんは、「自宅であった公園で祈り」と結んでいました。


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