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対話随想 №40 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                        作家  中山士朗

     <服> 

 今回の関さんの手紙を読みながら、伏流水の湧くところ、つまり川の源流に立った思いがしたことでした。片山百合子さん、長橋先生、難波助教、二井璋子さんの話は、原爆が投下される以前の市民それぞれの日常生活が一瞬にして消え、その後の悲惨な光景が七十一年の歳月を経て湧水となって川の流れとなり、海へと続いていくのが感じられます。
わけても、長橋先生の最期については、関さんの推察が正しいのではないかと思いました。それというのも、このたびの熊本・大分地震に遭遇した私の経験や、報道されたテレビの画像を見ながら、そのように判断したのでした。
震度7・三を記録した益城町では、前日にいったん避難所に入ったものの、翌日、「自宅で寝る」と言って帰宅した母親(85)が、再度激しい地震に見舞われ、家屋の下敷きになり、仏壇の前で死亡したということでした。どこへ行くにも、二人揃って外出するほど仲が良かった夫婦でしたが、夫の死後、妻は絶えず、仏壇に向かって話しかけていたそうです。娘さんは、「あの時、無理にでも引きとめておけば」と後悔の念を語っていましたが、母親と同じ年齢の私はその言葉を聞きながら、あの世で再びめぐり合い、幸せの時間を過ごしているにちがいないと想像したのでした。
長橋先生も毎日、夫や息子さんと語り合っておられたような気がします。・
私自身振り返ってみますと、以前はご仏飯を備えるとき位牌に向かって手を合わせながら、語りかけるようなことはありませんでしたが、最近になって両親、妻の位牌に向かって語りかけている自分にふと気づいたのでした。
このたびの震災で、旧制広島一中で一緒だった田頭清秀君が、家族同伴で福岡県小郡市から別府に見舞いに来てくれました。その田頭君とは動員先が同じ軍需工場でしたが、工場の義勇隊として二つの班に分けられ、交代で建物疎開作業に出動していたのでした。原爆が投下された当日、私が所属していた班は爆心地から一・五キロ離れた鶴見橋付近の現場に集結していて、被爆しました。
田頭君の班は、原爆が投下された時刻、工場の最寄りの駅である向洋(むかいなだ)駅に着いたばかりでした。昼ごろに解散になり、田頭君は友人とともに汽車が不通となった線路や鉄橋を伝って、自宅の最寄りの駅まで行き、そこから天満町に向かいましたが、凄まじい火災によって家に近づくことができなかったのです。避難先となっていた己斐国民学校に行き、母親を探しましたが見つかりませんでしたので、五日市町の母の実家に行きましたが、そこにも母親は来ていませんでした。
翌日、親戚の人とともに焼け跡に行きましたが、土蔵はいまだに炎上していたそうです。ようやく仏壇が置かれていた部屋の跡で、母親の白骨を発見したのでした。その傍らには数珠が転がっていたそうです。
私がこの話を聞いたのは、三年前、別府・鉄輪温泉の湯治場で六五年ぶりに会ったときのことでしたが、原爆で亡くなられた長橋先生、このたびの熊本大震災で亡くなられた益城町の母親、この話を聞きながら田頭君のお母さんの死が重なってくるのでした。
その日、私たちは市内の天ぷら専門店で食事をしましたが、
「先日、大井君が亡くなったと聞いたばかりなのに、今度は守屋君が亡くなりました」と、田頭君が言いました。
 大井、守屋の両君は、一年生のとき田頭君と同じクラスだったのです。
 しかし、私が何よりも驚いたのは、その前日に届いた、関さんの「対話随想」の原稿に、片山昇さんが語った守屋君とその娘さんのことが書かれていましたので、偶然とはいえ、あまりに時の一致に驚かざるをえませんでした。
守屋和郎君は、戦後に旧制広島一中が学制改革によって鯉城高校となったころ(昭和二三年)の蹴球部で最も活躍した選手でした。昭和二一年十月十八日の第一回国民体育大会の準決勝で神戸一中と対戦し、惜しくも1-4で敗れましたが、そのとき守屋君はFWとして活躍。昭和二四年一月二日から七日、西宮で開催された第二七回全国大会では、決勝で上野北高校を2-0で破って優勝しましたが、その時はFBとして出場し、三度目の全国制覇に貢献しているのです。
原爆が投下された時、爆心地から九〇〇メートルの地点にあった私たちの学校は校舎全壊のうえ全焼し、渡辺校長以下一五名の教職員と家屋作業中の一年生二八七名、三年生五五名他の学年九名が被爆、死亡しています。この悲惨さに加えて、広島には今後七〇年間草木はもちろん生物の生息は不可能という説が流布していたのでした。こうした壊滅的な状況下でありながら、蹴球部は食糧難、物資不足にもかかわらず、裸足で走り、地下足袋で蹴り、破れたボールを丁寧につくろって使ったといいます。ここでは、動員で、やろうと思ってもまったくできなかった好きな運動をやってみようといった、自然な気持ちからはじめた、と蹴球部OB会の座談会では語られています。こうした事柄は、「広島一中国泰寺高校百年史」を紐解いて知ったことですが、そのなかには、大毎主催第二七回全国高等学校蹴球大会(一九四九年=昭和二四年)で優勝した時の記念写真が掲載されていますが、前列左から四人目に守屋君が写っています。
守屋君に関してもっとも強く記憶に残っていることがあります。それは守屋君が広島原爆資料館に寄贈し、展示されている上着のことです。この上着は、守屋君や私がいた班が、作業現場近くの鶴見橋西詰めで朝礼を行っている最中に熱線を浴びた時の、焼け焦げた上着なのです。この展示写真を私は何度も見たことがありますが、私自身は、自分の上着がどう処理されたのか記憶に残っていないのです。救護所で軍医の診察を受けた時、軍医がメスで衣服を切り裂き、傷口を消毒してくれたことは覚えていますが、収容されている間は絶えず顔から滴り落ちる血膿で汚れてしまい、衛生兵によって捨てられ、身に着けていなかったのではないでしょうか。リュックサックに残されていた≪神風≫の鉢巻は、傷が癒えたとき燃やしたことは鮮明に記憶しているのです。


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