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対話随想 №39 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗さまへ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 お手紙頂いてびっくりしました。片山写真館の片山昇さんのお姉さまのことなど、私、想像もしていなかったものですから。驚いて、すぐ片山さんに、電話を入れました。
 片山さんのお話しでは、片山写真館は例の建物疎開作業で家が取り壊しになるというので、やむなく段原新町の方に転居しておられたそうです、片山百合子さんはその日体調が悪く、日赤病院に行く予定でしたが、どうにも気分が悪くて外に出るのが嫌で、ぐずぐずしていたそうです。そこへピカときた。爆心から2キロのところですが屋内なので、火傷もせず、家も焼失を免れました。あの建物疎開で片山家は人的損害がなかったわけで、これはラッキーなことでした。百合子さんはそのまま第一県女を卒業、上級学校には行かず、すぐ結婚されたそうです。今、丹那(広島市南区)におられるそうですが、脳梗塞をなさったとかで万全の体調のようでないようですから、ご住所などは聞きませんでした。
 百合子さんは本当に書道のうまい方だったようですね、たびたび貼り出されたことは昇さんもよく記憶しておられました。勤労動員先は知らないと言っておられました。これは仕方ないと言いますか、あのころのまだ年若い戦前派(つまり私たち世代)は、学年刻みに経験が違い、中山さんなど、勤労動員世代は、学問を取り上げられ工場で働かされたことに.こだわる思いがあり、どこの工場に動員されたか絶対に忘れませんが、その下の年ごろ(いわゆる学童疎開年齢)は、疎開の思い出はあっても勤労動員のことはさっぱり関心がないといった具合で、差があります。
 片山さんは思いがけないことを言っておられました。中山さんと同級でやはり鶴見橋で被爆された方に守家さんという方がおられるそうですね。サッカーのうまい方とか。その方は亡くなられたそうですが、その娘さんが練馬の方に住んでおられて片山さんの知り合いだそうです。その娘さんに、片山さんが私たちの往復書簡第一集を貸してあげたそうです。当時の状況がよくわかった、と言っておられたそうで、また、思いがけない方に「伏流水」が流れて行ったと思いました。

 それから、長橋先生のことですがピアノの下で亡くなられたという話は大分流れているようで、能登原さんもそう聞いたと言っておられました。でも、私と姉とが最初に市の中心部に入った時、長橋先生の家の焼け跡で、ドラム缶のように見えたレコードの残骸に息をのんだとき、近所の焼け跡にいらした方のお話しでは。祈るような格好で死んでおられたのが発見された、多分仏壇の前で拝んでおられたのではないかと言っておられました。誰もその瞬間を見たわけではない、伝聞の話ですから、どちらが正しいか誰にも分かりません。しかし爆心から八〇〇メートルの至近距離です。ピカときた瞬間に気絶したという方が多い地区です。グランドピアノの下に潜り込む余裕などなかったのではないでしょうか。それに比べ仏壇の前で拝んでおられた時に、というのは如何にもありそうな気がします。八時一五分、朝食後、仏壇に手を合わせるには頃合いの時間です。先生は、戦争にもぎ取られ、戦死した最愛の息子さんに念仏を唱えていたのではないでしょうか。息子さんも音楽の道に精進されていたのです、先生の嘆きは子どもの私でもわかりました。私は、日本人は、全員、戦死することを誇りと思っているということの「嘘」を、長橋先生の嘆きで肌で知ったと思います。先生は仏壇の前で悲しみをぶつけ、息子さんと話しておられたのではないか、そう思えるのです。
 
 さて、この前の続きで、三月二十六日の私の、トークセッションで片山さんだけでなく思いがけない“縁=伏流水”を感じたのですが、その話です。広島からわざわざ難波郁江さんがきてくださいました。YWCAで活躍しておられる方で、私の「広島の少年少女たち」のフィールドワークの責任者です。来てくださったのも驚きましたが、いきなり「あの難波先生は私のいとこなのよ!」と言われます。私の『ヒロシマの少年少女たち』の中に、教師の勇気ある判断で作業を断り生徒の命が助かった例をいくつか紹介していますが、その中に青崎国民学校の酒井教頭が、遠い青崎から何時間も歩かせ疎開地に行かせ働かせる非能率さに、引率教師の難波助教に、県の役人に明日からは来ませんと断らせ、六日の出動をやめる。それで生徒たちは命を拾ったのですが、その難波先生が、いとこだと言われるのです。一中出身の若い助教としか書いてありませんが、一中を出てすぐ助教になったらしいです、難波さんの話だと、難波家は代々教員で、難波助教も戦後勉強をし直し、正式の教員となり、生涯教師をつとめられたとか(もう、故人だそうです)。あのころどこの学校も若い男の教員は兵隊にとられ、男子教員は足りず、大変だったようです。上級学校に行っても学業はなく工場に動員されるだけ、とりあえず助教になって働けと、難波先生は勧められたのではないでしょうか。それが教頭の勇気ある判断で生徒も、もちろん自分も助かった。これもすごい話ですね。
 集会で私は本を売ってもらおうと堀池美帆さんに手伝いを頼みました。今大学二年生です。彼女とは、彼女が高校一年生の時、広島で会いました。戦争や平和のことに興味を持ち、大学生の中に混じっても少しも物怖じしないのに驚いたのですが、その後もずっと縁が続いています。東日本大震災では、ボランティアで現地に行くなど、とにかく行動派、たのもしい若人です。この日会場には早稲田の女子学生が何人かいました。元朝日新聞のソウル特派員で、韓国の被爆者を考える会をやっておられる小田川興さんが、早稲田大学の講師でもあるので、学生を何人か連れてきますよ、と言ってくださったのですが、その早稲田の学生たちと美帆さんが顔見知りらしいのです。聞くと予備校の仲間とか。その予備校には素晴らしい先生がいて、『予備校ネットワーク』のような仲間がいるらしく、前にもある集会に美帆さんがその仲間たちを連れてきて驚いたことがあるのですが、ここに来た早大生たちもそうした仲間のようです。高校ではなく、予備校で、というのは驚きですが、考えてみると小田実さんも予備校教師だったわけだし、予備校もなかなかたいしたものですね。
 その日は分からなかったのですが、出席者の二井さんという方から竹内さんあてにメールが入っていて、その方は、「第二県女二年西組』のクラスメートの二井璋子さんの親類と言われるのです。聞くと、義父が璋子さんのいとことか。かなり遠い親類ですね。そこにちゃんと話が伝わっていて、その方が来てくださったこと、とてもうれしく思いました。これも伏流水、ですかしら。


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