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対話随想 №38 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子さまへ

                                        作家  中山士朗
      
      <遡>

 今回のお手紙により、竹内良男氏主催の<ヒロシマ・2016・連続講座>が駒込のキリスト教系の福祉財団が保有する会館で、月に一度、開かれていることを知りました。竹内氏のヒロシマへの想いもそうですが、そこに講師として、建物疎開で亡くなった少年少女について話された、関さんの熱い想いも同時につたわってきました。
 その講座の出席者の中に、片山昇サンの名前が出て来て、少なからず驚きました。なぜならば、私たちの「往復書簡」第一集の六に片山写真館のことが関さんによって書かれていたからです。それを読んで私は、片山さんが私と同じ中島小学校の卒業生でありしかも片岡脩君とは同級生であったことを初めて知ったのでした。しかも、共に旧制広島一中生だったのでした。片山さんんは東京都日野市在住で、その地の被爆者団体の会長をされていたことも知りました。
 この旅の手紙を読みながら、中島本通りの元安橋の袂、大正屋呉服店の向かいにあった片山写真館で、家族の写真を撮ってもらったことを思い出しました。この写真、はからずも入り用があったものですから、アルバムを整理しながらやっと探し出したところです。
私がまだ中島小学校の低学年生だったころのものです。
 さきほど片山昇さんの話が出て来ましたが、私は片山昇さんの御姉さん、有名な片山写真館のご息女である百合子さんのことは鮮明に記憶しています。私より一学年上でしたが、学校で行事があるたびに、学年を代表して全校生徒の前に立たされることが多く、その所作、言動にはどことなくモダンな雰囲気が漂い、聡明さを感じさせる顔立ちを子どもなりに感じたものです。「書き方」の張り出しや、「綴り方」の文集(めばえ)でご一緒したことがあるものですから、ことのほか強く印象に残っているのです。
 中島小学校から県立第一高等女学校に行かれたことは知っていましたが、戦中の学徒動員後の消息については聞き及んでいませんでした。ただ、私が通っていた軍需工場(当時は東洋工業、現・マツダ)に、私たちより一学年上の第一県女の生徒が動員されていましたが、姿を見かけたことは一度もありませんでした。第一県女では、その他広島印刷に動員になった組があることを後に知りましたが、片山百合子さんがそちらに通っておられたかどうか判明しませんでした。そして、原爆が投下された時刻に、どこにおられ、戦後どのように過ごされたのか、そして、現在、ご健在でいられるのかどうか知りたいところです。
 そんなこともあって、中島小学校で私と同じ学年で、家が片山写真館のすぐ近くにあって第一県女に通っていた村上(旧姓・藤井)愛子さんに電話してたずねてみました。彼女は、濵田君と同じ広島航空に動員されていましたが、中島本通りに会った家の焼け跡に駆けつけて目にしたのは、両親の白骨だったということでした。
 「片山百合子さんの動員先は、広島印刷でご無事だと思いますが、念のため、第一県女の跡地に行って、死没者の名前が刻まれた銅版を調べて来ましょうか」
 学校の跡地は、小町の一〇〇メートル道路の緑地帯にあり、同校の門柱が一本だけ残されていて、「追憶の碑」の後ろには小網町で被爆して全滅した一年生二二三名の名前が刻まれた銅版があります」と彼女は私に説明した後で、
「それには。関千枝子さんが往復書簡で書いておられた、音楽の先生だった長橋八重子先生の名前も刻まれているのです」
 と教えてくれました。そして「先生はピアノの下で焼死されていたと聞いております」と話してくれました。
 長橋先生のことは、『往復書簡』第一集4「プールとピアノ」で、また、片山写真館二ついては6「広島天城旅館のこと」の中で関さんが書いておられますが、村上さんはその個所を読んだとき、私によほど電話してそのことを伝えようかと思ったそうです。
 今回の手紙の最後は、長橋先生との思い出が詰まった、読む側にも芸術家の魂のようなものが伝わってくる文章でした。読みながら、関さん先生宅の焼け跡で目にされた、ドラム缶のような形で真っ黒に焦げた物体と化した、膨大な量のレコードの残骸、それを見て、関さんが、
 「焼け跡の骨より恐ろしいと思った」
 「戦時下、広島に残るわずかな文化まで焼いてしまった」
 と、心の中で叫ばれた言葉が、再び響いてくるのを覚えました。
 それにしても、能登原さんと関さんの間で、墨塗りの音楽教科書が発端となり、「春の岬」からモーツアルトの「トルコ行進曲月ソナタ第一楽章」へと話題が広がり、長橋先生につながっていくのですが、そのような折、村上さんから長橋先生の最後の様子を聞くとは思いも寄らぬことでした。
 「きっと、長橋先生はモーツアルトがお好きだったのだ、と思いました、きっと、先生は平和の中でピアノを弾ける日を待っておられたに相違ない、と思いました」
 関さんのこの言葉を書き移しながら、先生のご最期を想像すると、涙がにじんでくるのをおぼえます。
 関さんから最近の私の書簡がますます[随想]めいてきていると言われましたが、勝手に一文字の題名をつけ、凝縮したいと思っているのは事実です。そうした思念にとらわれるのも、関さんからの問いかけに心を集中して表現したいと思うからでしょう。
 私は、日野原重明さんの随想が好きでよく読んでいますが、昨日の新聞に、ある雑誌の創刊号の皇国が載っていて、日野原さんの『生き方上手』が紹介されていました。その中に、<人生時には川の淀みに身を寄せ、全体を俯瞰することも必要です>という言葉が囲繞されていましたが、私は淀みとは反対に、伏流水から分かれた川の流れを遡行し、源流をたどり、命のつながりに触れたいという思いから、今回は<遡>といたしました。私のわがままかもしれません。


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