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対話随想 №37

関千枝子から中山士朗様へ

                                                                       エッセイスト  関 千枝子

 中山さんの書簡が、近頃ますます[随想]めいてきますのに、私のは、相変わらず「報告書」そのもので、バタバタしていて申しわけありません。
  三月二十六日、竹内良男先生主宰の<ヒロシマ・2016・連続講座>第3回目に講師として参加、『ヒロシマの少年少女たち』について、思いのたけをしゃべらせてもらいました。この連続講座、毎月一回行われているのですが、駒込にキリスト教系の福祉支援財団が持っている会館のお部屋を借りています。机を入れて三〇人くらいでいっぱいの小ぶりの集会室ですが、駒込駅から一分くらいで近く、大変値段が安くて(この頃東京は、会場の部屋代が高くて大変です。自治体の貸室は割安ですがいろいろ制約があり、いいところは申し込みが多くて抽選とか大変)、機材なども揃っていますし、竹内さんは気に入ってしまって、秋まで予約を入れています。駒込などというと東京では北という感じで、同じ東京でも南の方に住む私には、遠いところのように感じられるのですが、山手線で乗り換えなしで意外に早く着くのでびっくりしました。
この日は原発反対の大行動があるとかで何人くらいの方が来てくださるか心配でしたが、申し込みは二八人会ったそうで、ホッとしていました。ところが、ふたを開けてみますと四〇人の参加、(補助椅子を入れる騒ぎ。)私も話し出すと止まらなくなり、司会の竹内さんは困ってしまわれたようでした。
  とにかく私は、ヒロシマの人でさえ忘れているが、建物疎開作業で死んだ少年少女たちが6千人いること、命は助かった重い火傷を負った人も千人以上いること。彼らが小さな英霊として靖国神社に合祀されていること。そして彼らの中から朝鮮半島出身の少年少女の名がカットされ、存在さえ忘れられていること。朝鮮半島出身者のことでは、私自身が分からなかった、というか彼らの存在が目にうつっていなかったこと。これは自分自身の中にある差別というか、日本人のおごりというか、そうした問題ではないかと思えるということを話しました。
 当時、朝鮮人たちは貧しかったので、県立の学校などには進学できなかった、だから私はその存在さえ、ピンと来なかった。植民地の民として、故郷では食べることも難しく、日本に流れ、貧困の中で働き、植民地の民としてさげすまれていた朝鮮半島出身の人たち。戦争のときは「お前たちも天皇の赤子だ」とこき使っておきながら、軍人恩給の時は外国人だとカットされてしまう。この「大日本帝国」の体制の中で、強制労働も、あるいは慰安婦問題も起こるわけです。なんとも考えてしまいます。
 そして最後は、あの建物疎開作業は何であったかという問題です。空襲の被害を少なくするためと教えられ、私たちは「お国のため」と張り切って作業に行ったのですが、私はあれは、要するに道づくりではないか、本土決戦に備えて道を整備することではなかったかと思わざるを得ないのです。
原爆の被害のこと、まだまだ分からないことがいっぱいある、検証すべきことは多いと私には思えるのですが。
 参加者の中に,中島にあった片山写真館の片山昇さんが来ておられました。彼、今東京都日野市の原爆被害者の会の会長さんです。彼は、中島小学校で片岡脩さんと同期だったそうですが、何だかで一年遅れ、家は一〇〇メートル道路のため道になるというので、当時段原に居たそうです。そして一年遅れて、戦後に旧制の最後の入学者として一中に入ったそうです。中山さんのことは書道のうまい方でしょう、と覚えておられました。中山さんも中島小学校ですよ、と言ったら、そうでしたかと言っておられましたが。
 片山さんには前に私のクラスの林さんの御父さん、片山写真館で修業、独立し林写真館を作った林弘さんの写真を贈ってもらったことがありますが、お会いするのは初めてです。片山さんにも発言していただいたのですが、私も一言、林弘さんのことを話させていただきました。林さんは一家全滅して、被爆時の詳しい状況もわからないのですが、『広島第二県女二年西組』を出した後、いろいろの方から林写真館の思い出を話していただきました。林さんは、片山写真館で修業した人の中で、ピカ一の腕だったようです。林さんの撮った写真を見せていただいたのですが、実にきれいです。あのころ写真館で写真を撮ってもらうと、それに製作者の刻印が打ってあったものですが、林写真館の写真には、林弘作品とあるのです。戦前、街の写真師たちは、街の芸術家、腕を誇ったものでしたが「作品」と刻印した例、私はほかには知りません。「謹製」という刻印はたくさん見ますが。
 林さんは、街の芸術家として誇りを持っていたのでしょう。そんな人も、原爆は皆殺しにしてしまったのです。
 芸術家のことでもう一つ、前の便で能登原さんにお目にかかったことを書きましたが、その時私が戦後の墨塗り教科書で、女学校二年の時の音楽の教科書があると言いましたら能登原さんが非常に興味を示されたので、その教科書をお貸しすることになったのです。その教科書の中に「春の岬」という曲があるのですが(これは消されずに残っています)、こと曲を教わった授業のことを私はよく覚えています。前にも書きました長橋八重子先生が、(女専の先生でしたが、第二県女二年生の私たちも教えて下さっていたのです)「この曲は何だか知っていますか」と言われ、ピアノを習っていた私は知っていたので得意になって手を挙げ、「モーツアルのトルコ行進曲付きソナタの第一楽章です」というと「そうです」ととてもうれしそうに言われました。それは第一楽章のメロディをアレンジし、堀内敬三が詞を書いてつけていました。英米の曲が使えないので、こんなことをしたのでしょうが。  先生にあてていただいたのがうれしく、はっきり記憶しており、その後先生がモーツアルトについて説明されたことも覚えています。
 今度、能登原さんにその墨塗り教科書を送ろうと思ってみていますと、曲の肩に鉛筆で薄く書き込みがしてあるのが目に入りました。モーツアルトがパリに留学中に作曲、などと書いてあります。これは長橋先生があの時説明して下さったのを書いたのに違いありません。私がこんなことを知っているはずはありませんから。こんなこと、普通なら、教える必要のないことですよね。長橋先生はモーツアルトがお好きだったのだ、と思いました。きっと先生は、平和の中でピアノを弾ける日を待っておられたに相違ない、と思いました。
 この日のことで報告することがほかにもいくつかあるのですが、「縁」というより中山さんの言われる「伏流水」のような感を受けたことですが。あまり長くなりましたので、この次にお話ししたいと思います。


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