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対話随想 №36 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子さま

                                        作家  中山士朗

 <脈>
 このたびの関さんの手紙を拝見しながら、私たちがこれまで<縁>と考えていたことが、実は七一年経た伏流水が私たちの「往復書簡」、「対話随想」の底を水流となって流れ、これが川に合流して海に注がれてゆくのだということに気づいたのでした。
 能登原由美さんが『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』を春秋社からだされたという話は、その出版社の設立にあたった野口兵蔵氏、またそこから故・熊井啓映画監督(一九五二年関川秀雄監督制作「ひろしま」の助監督をつとめる)ならびに夫人の熊井明子さんが著書を出版されているのですが、それぞれ私と関わりのある人たちでした。私はその春秋社から横田南嶺氏(臨済宗円覚寺派管長)の著書『祈りの延命十句観音経』を購入しましたが、それは、松原泰道師について知りたいがためでした。このことについては、「対話随想34」
でもふれています。
 そして、「核戦争防止・核廃絶を訴える京都医師の会」の代表世話人の三宅成恒氏の『医師たちのヒロシマ』のところでは、原爆が投下された直後に調査のために広島に入った京大の医師、医学生が、滞在先の大野陸軍病院で枕崎台風に遭遇し、犠牲となったことが記されていました。このことは、私たちの「往復書簡」のなかでも取り上げられていたことでした。とりわけ、広島で被爆した南方留学生のサイド・オマールが、京大附属病院で死去しましたが、そのことを調べるために同病院の耳鼻科病棟を訪れた際会った医師から、広島で災害に遭遇した人たちのことを知ったのでした。
 この『医師たちのヒロシマ』(一九九一年出版)の書名から、なんとなく似た書名の本がずっと以前に送られて来た記憶があったものですから、調べてみました。こちらの方は、広島市医師会が平成元年七月に発行した『ヒロシマ 医師のカルテ』(367頁)という本でした。『医師たちのヒロシマ』より三年前に発行されたものでしたが、当時広島市医師会長であった山下芳彦氏(私とは旧一中時代の同級生)が「発刊にあたって」と題して書いています。その一部を書き写してみました。

 広島を訪問した人びとは、その空気に触れることによって、平和への思いをさらに強くして帰るという。内外から多数の医師の参加を求めて、核戦争防止国際医師会議が広島で開催される意義も、基本的にはこの点にあるといえよう。加えてこの会議には人類史上最初の被爆地である広島における白熱した討論のなかから、平和を希求する新たな方向が導き出されるのではないかという期待がこめられているのである。
 この10月に開催される第9回核戦争防止国際医師会議を前にして、広島市医師会は、多年にわたる被爆者医療の足跡を『ヒロシマ 医師のカルテ』という、1冊の本として発刊することにした。国際会議の成功は、お互いが忌憚のない意見を交換することによってこそ達成し得るものと言えよう、それはまずその前提として主催者の考えを明確にしておくことが必要である。私たちが、日本人として、広島の医師としての主張をこの本に織り込んで発刊したのもこのためである。
 『ヒロシマ 医師のカルテ』は、昭和45年から63年までの『広島市医師会だより』原爆特集号へ記載された手記を集大成したものにほかならない。(中略)
 核戦争防止国際会議がアメリカソビエトの医師の提唱によって誕生し、ヨーロッパにその多くの賛同者を有し発展したように、広島・長崎を含む日本の医師の核戦争防止運動へのとりくみは、決して早いとは言えなかった。とはいえ日本の医師、特に広島・長崎の医師の平和への想いの強さは、だれにもまけないものがあるのは事実である。広島・長崎の医師は、あまりにも残虐な体験をし、また平和とかけはなれた運動をみせつけられ手きたために、想いを内に秘めてしまう悲しい習性が身についてしまったのである。しかし、広島の医師は、「原爆乙女」の治療を地元医師はできないのかというマスコミの報道に奮起して広島市原爆障害者治療対策協議会を組織し、被爆者の後障害にとりくんだように、適切な刺激と目的をみいだしたときにはたちまちにしてこの習性を打破し、より大きな目標にむかって邁進するというかがやかしい歴史をもっている。
 今、広島の医師は、核戦争防止国際会議が真の平和を求める運動であることを理解し、多くの会員がこの運動に参加しようとしている。広島の医師は、世界の医師に触発され、自己を変革しつつあると言えよう。またこの機会に、治療してなお自責の念にとらわれている自己の姿を伝えることによって、平和を求めて参集した世界の医師たちを変革させることもできるであろう。さらに私たちは『ヒロシマ 医師のカルテ』に寄せられた手記を読みかえすことによって、おおくの先輩の被爆者医療への姿勢に医の原点をみいだし、日常の診療にそれを生かしていきたいと思う。

 寄せられた手記の中には、一中で同学年だった数名の医師の文章がありましたが、私が特に印象に残ったのは、当時一年生で、爆心地から〇・九キロメートル離れた校舎にいて倒壊校舎から脱出して奇跡的に生き残った生徒の一人であった寄田 亨医師の手記でした。私はこの寄田医師とは昭和四六年に会って話を聞いたことがあります。対談・<核時代に医師はどう生きる>には、原田東岷、庄野直美、<反核への模索>には、秋葉忠利、茶幡隆之の名前がありました。
 関さんの『第二県女・…』の朗読劇が、生駒で公演された際に出会われた、河勝重美、三宅成恒氏、亡き玖村さんきょうだい、以前の関西芸術座の朗読劇の公演に出演された女優河東けいさんのお話を読みながら、被爆後七一年の歳月を費やし、広島の花崗岩質の土壌に静かに浸透していった伏流水の流れを私は感じずにはいられませんでした。
 私たちの『往復書簡』、それに続く『対話随想』を流れる伏流水が川に合流し、やがて海に注がれ、次代の時間と空間に伝わることを願っています。


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