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立川陸軍飛行場と日本・アジア №120 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「報知日米号」千島列島で遭難す

                                   近現代史研究家  楢崎茂彌 
  
  「報知日米号」羽田を飛び立つ

  アッシュ氏が立川で太平洋無着陸飛行の準備中の5月4日、前年(1930年)8月30日、日本人で初めてヨーロッパからの飛行に成功した(連載NO95)吉原清治飛行士が、今度は羽田からアメリカ目指して飛び立ちます。飛行ルートは連載NO9~NO12で紹介した、米海軍スミス隊の世界一周飛行が飛んだ北太平洋コースを逆に飛ぶもので、もちろん無着陸飛行ではありません。

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“この日『報知日米号』は吉原飛行士操縦のもとに、午前六時五十五分霞ケ浦より羽田へ空中輸送され、高橋兵曹等の指導によってガソリンその他主要積載物の積込みを終った、吉原飛行士は耐寒装備の新調の飛行服を凛々しく身につ120-2.jpgけて、甲斐々々しく愛機の点検を行い壮図決行を前にして涙ぐましい緊張を示す、この頃式場には続々招待者参集し、久邇宮御使として御付武官安藤海軍少佐、賀陽宮御使として事務官梶田文太郎氏を差遣わされた、八時四十分いよいよ出発式に入り、戸山学校軍楽隊の吹奏によって一同国歌を合唱し、吉原飛行士も唱和して荘重なる興奮は式場を包み、この間いとけない八歳の鍋島松子さん(鍋島直縄子令嬢)の手によって式場内マスト高く賀陽宮殿下より拝受の国旗は掲揚された”このあと各方面からの励ましの言葉が続き、吉原飛行士の挨拶が終わると、
“天に轟く万歳に送られ吉原飛行士愛機に搭乗 空に舞120-3.jpgう千羽の鳩と歓送機見事、羽田飛行場を離水爽快なる初夏の空を破る爆音、地に満ちる歓声、『報知日米号』は白銀に輝きながら翔け上った、正に四日午前十時十分、世を挙げて期待したその時刻、吉原飛行士は日米親善新航空路開拓の使命を担って、ユンケルスA五〇型水上機を操縦して単身北太平洋征空の壮途に上った。(「報知新聞」1931.5.5夕刊) 
 いよいよ出発です、この訪米飛行の目的を企画した野間報知新聞社長(雑誌「キング」を発行する大日本雄弁講談社社長)は次のように語っています。
 “…私は声を大にして諸外国の方々に申上げたい、吉原飛行士は一人でありますが、その経過する処各国の方々と握手するその手は全日本八千万国民の固い握手、熱い握手であります、吉原君の真心は日本八千万の同胞の真心であります、かくの如くに吉原君のこの行が、希くは国際親善の為め人類共愛の為め、将たまたこの太平洋新航空路開拓の為め、東西文明融合の促進の為めに、更にその他いろいろの目的を有するのでありまして、それ等に充分に役立つようにと念じてやまぬ次第であります、今や吉原氏は実に実に重且大なる使命を帯びて、未曾有の大壮挙を決行せんとして飛び立つのであります私は日本の国威により、皆様の御熱誠によって…”(「報知新聞」1931.5.5夕刊)
 大日本雄弁講談社長の面目躍如たるものがありますが、27歳の吉原飛行士一人の肩に背負わせるには余りに大きな目的のように感じます。

120-4.jpg  「報知日米号」東京市の上空を飛ぶ
“地上から限りなく起る万歳の声は歓送の機上までひびく、市内の各小学校の運動場には少国民の群が小旗をふって送っている、機上の吉原飛行士を仰げば、上下左右の歓送機に一々手をあげニコニコと笑顔を見せて挨拶している、それは余裕しゃくしゃくとして自信に満ちた操縦ぶりである、これを見た歓送機上の一同はいずれも感嘆した、同乗したわが社写真班員、松竹ニュース班は帝都上空の機上で左の窓から右の窓からこの歴史的に記念される『報知日米号』が翔ける雄姿をカメラにおさめるため冒険的な活動を続ける
 かくて上野の森を越え、惜んでも惜みきれぬ心を胸に抱くが如き吉原飛行士は、時に後方に眼をやり帝都に別れて進んで行く、隅田川を越した、荒川放水路を越した、地上に白い一線を描いた日光街道では、行人や疾走中の自動車までが空の雄姿を見出し、その行を止めて遥かに空を仰ぎながら手拭や帽子をふり、万歳を叫ぶのが手にとるように見える、団旗を高く掲げて成功を祝しているのもある”

 「報知日米号」千島列島で遭難
 吉原飛行士は、羽田を飛び立つとその日は岩手県沼崎に泊まり、翌日には予定より1時間13分早く根室に到着しました。戸川航空局長は“この調子なら成功疑いなし”とコメントしていますが、これからが魔の北方航空路です。悪天候に前途を阻まれる「報知日米号」は9日になりようやく根室を離れ択捉島内保湾に不時着水します。内保村は30戸人口200人ほどの小さな村ですが、海がうねると村民たちは首まで海水に浸かりながら必死の努力で機体を陸上に引き揚げます。13日にはようやく武魯頓島向けて飛び立ちますが、エンジンの不調で択捉島中部の沙那に不時着水してしまいました。14日には気を取り直して、順調にいけばカムチャッカ半島のペトロヴロフスクを目指そうと飛び立った吉原飛行士は遭難、7時間半漂流して九死に一生を得、白鷹丸に救助されます。
 「報知新聞」(1931.5016)は次のように報じています。
 “白鳳丸にて十五日午前十一時吉原飛行士発落石無電局経由=紗那を離水したのは十四日の朝七時二十二分だった、六十五度のコースを取って進んだ、やがて別飛、蘂取の上空を飛行中、眼下に真っ黒き大魚が数頭(クジラだと思ったが大イルカだった)游弋しているのを見たと思ったのも束の間、海峡からふき出した高度二百メートル位の濃霧のために下が見えなくなってしまった、この濃霧の上を飛び越え得撫島西北のところで、ほんのしばし海面を見ることが出来た、やがて白雪に覆われた山の姿を横に眺めながら、上方のすみきった青空をたよりに、私は眼もくらみそうな濃霧の白い光りを飛行眼鏡で避けながらずんずんと高度を高めて行った、九時近く得撫島を過ぎるころから霧は益々右上りに無限に高く続き、少しの晴れ間さえも見出せない、この時計らずも命と頼む発動機に変調の起り出したことを感じた、私は『どうしようか』と思った、進むべきか引返すべきか、が、既に五百メートルもの高い濃霧の上では、引返してもとても駄目だと思い、むしろ出発の時視界広しとの通報があった武魯頓湾を目ざすより外なしと決心し、七百メートルの上空でレバーを八まで開いて千九百六十廻し、非常手段をとった、知理保以と武魯頓との間を、濃霧の上にかすかに見せている島の頂きを眺めながら約半時間ほど進んだが、霧はいよいよ高まるばかり、一方発動機の廻転はいよいよ利かなくなって行く、私は新知島にあがる火山の噴煙を見て、なお六十五度のコースで飛ぶ、時速百五十キロであった、ちょうど山が右側になったとき、スルスルスルと発動機の廻転が止ってしまった『駄目だ』と思った『万事休す』と思った、そして左へ百二十度ばかり廻って運を天にまかせて下降した、濃霧のまっただ中に入った、盲になったように、下方はおろか周囲の何ものも見えぬ、高度百メートル位と思われるところで百二十キロの速力にし、そのまま待っていた旋回針と速度計で海面の見えるのを待ち遠しく思っていた、と、チラッと狂う白浪が目に入った、斜め前から大きなうねりが来るのが見えた『これは大きいな』と思うと同時に、飛行機を立て直す暇もなく、機体は大うねりの谷へどかんとばかり落ち込んだ、発動機が止っているので如何なる操作も無効だった、瞬間『沈むんだな』と思って覚悟をきめた、が、はからざりき私は機体と共に浮いている、そう思うとやっと気が落ち着いて来た、しかし直ちに北洋風浪の真っただ中に弄ばれていることがぴんと来た『どうにでもなれ』とまた決心せねばならなかった、風浪に翻弄漂流されつつ翼が激浪にたたかれているのを眺めながら、いよいよ沈むときの準備を了った
 そのうちにふと風がやんだのに気がついた、時計を見ると漂流してから一時間ほどを経過していた、霧がほんの少しずつ晴れ出して行く、やがて三四哩前方に新知湾が眺められた、それから北東に流されること一時間半、こんどは風向きが北東に変って、私は機体と共にだんだん岸の方へ吹寄せられて来た、不時着水、風浪に漂流して五時間余に、やっと錨のとどく程度の深さの岸へ流れ着いたので錨のロープを携えてうねりを避けつつ、玉石のある岸を目ざして六十回ほど海中歩行を試みた末、辛うじて石によじ登ったが、激しい疲労のため足が少しも利かず、一歩の歩行すらも出来なかった、仕方なしにそこへ身を投げて休んでいたが、愛機のフロートが浪にたたかれるのを見て我慢出来ず、漸く携えていたロープを崖の石にむすびつけ、必死の力を出して飛行機の引揚を試みたが、力尽きて能わず、辛うじてその尾部から半分ほどを岸へ陸揚出来ただけであった、私は疲れのため何もする気力がなかったが、陸上での危険も慮られたので、早速武装を整えて海と陸とに警戒をせねばならなかった、狐が二三匹現れて、キョトンと私の方を眺めては姿を消した、三時半頃から濃霧がまたも低くたれこめて来た、見通せるのはやっと二町位しかない、全く運を天にまかせて時間を過ごした、五時頃だった、大海獣のほうこうのような、または汽笛のような音を二度三度耳にした、『何だろう』と思って、私は眠る支度をしながら一るの望みを以て耳を傾けていた、五時十分、また聞こえた、その方角が自分の前方の海上らしい、『はて船かな』と思った私は、直ぐにピストルを二発放った、と遥か海上からまた先刻の音が聞こえて来た、私は更に一発ピストルを発車してそれに呼応した、やはり船だった、私はいろいろ考えた、『出来れば再挙だ』『皆様に相済まぬ』-と、また『どうすべきか』とも考えた、全く航行不可能になっているところを白鳳丸の勇敢な活動によって発見されたのだ、そして飛行機と共にボートに曳かれて本船に着いた、思わず涙があふれ出た、私には何もいえなかった、ただ熱い涙が出るばかりだった、山本船長以下船員全部は私の無事な姿を発見して非常に喜んでくれた、せまい甲板に組立てたままの破損飛行機を積みおえたのは午後八時過ぎであった、みんな白鳳丸のお蔭だと私はしみじみ感謝している(「報知新聞」1931.5.16)
 吉原飛行士には、更に「報知日米号」第二号機が準備されます。
 
120-5.jpg昭和恐慌・南部銃工場でも人員整理
 横幕さんが、今年の4月上期の「代表玲子の雑記帳」に“今年は、日本で初めて宇宙ロケット発射実験に成功して60年です。”と題して、国分寺にある早稲田実業高校の正門わきにある「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑を紹介しましたが、戦前この地には、陸海軍の銃を作る南部銃製造所がありました。この工場も昭和恐慌にのみ込まれます。
 “南部銃工場十三名解雇 府下国分寺村在南部銃製作工場では、六日夜突如職工四十三名を解雇する旨発表一か月分の手当を与え重役南部中将は経営上減員の止むを得ざるに至った事情を述べて一同を引き取らせてた。馘首職工はいまのところ平穏であるが府中署で警戒中”(「東京日日新聞・府下版」1931.3.10)。
 重役南部中将とは、陸軍を退役してこの会社を創業した南部麒次郎のことです。ペンシルロケットの発射実験は、銃弾の速度を計るための施設を利用して行われたわけなのです。上の写真の左下を見ると実験施設の様子が分かります。南部銃製造所は1936年には昭和製作所、大成工業と合併して中央工業となりますが、南部銃の敷地は中央線をはさんで南北に広がり、南側は現在は東京経済大学のキャン120-6.jpgパスになっています。南部銃も東京経済大学も元はと言えば、日本初の自動車レーサー大倉喜七郎(連載NO5)の父大倉喜八郎が始めた大倉財閥系なので、大学がここに移転して来たことに納得しました。

 立川で家賃値下げ
 不景気にもかかわらず、悪徳家主が横行する立川町で、佐竹歯科医院は前年一120-7.jpg戸3円ずつ値下げしたばかりの家賃を5月1日から、また3円の再値下げに踏み切り、間口三間の貸家は前年14円だったものが8円になりました。家主の佐竹さんは
“不景気の折柄自発的に値下げしました。古いと言っても材料が高い時に建てたもので未だ三分の一しか回収していないのですが、仕方ありません”(「東京日日新聞・府下版」1931.4.30)と割り切れない様子ですが、結構なことですね。
 佐竹医院は、人が中々借りないような不便な所にあるかと思ったのですが、駅のそばの伊勢丹と道を隔てた所にあることが分かり、思わず写真をとりました。

写真1番目   北太平洋横断全行程        「報知新聞」1931.5.5
写真2番目   「報知日米号」出発の刹那     「報知新聞」1931.5.5
写真3番目   羽田空港沖合            著者撮影 2015.10.26
写真4番目   帝都上空の「報知日米号」の雄姿  「報知新聞」1931.5.5
写真5番目   日本の宇宙開発の始まり(JAXA相模原) 著者撮影 2015.6.6
写真6番目   中央工業跡地           「東京経済大学百年史」
写真7番目   佐竹歯科                            著者撮影 2015.10.18


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