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立川陸軍飛行場と日本・アジア №108 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

三菱製カーチスP6戦闘機逆立ち、昭和恐慌1年目の年の暮れ

                                 近現代史研究家  楢崎茂彌     

 明けましておめでとうございます。今年は戦後70年という節目の年ですが、昨年末の突然の総選挙で安倍首相は国民から信任されたと胸を張り、原発再稼働、集団的自衛権行使の法制化、派遣労働の野放しなどを進めて来そうな雰囲気です。後世“2014年の総選挙が歴史の転換点だった”と言われないように、ここが主権者である私達のがんばり所だと思います。今年もご愛読お願いします。

 帝都上空で夜襲演習
 立川で誕生した飛行第7連隊(爆撃隊)所属の87式重爆撃機2機が12月12日立川に飛来し、飛行場上空で夜間中距離目標燈と羅針盤を利用する航法訓練のための夜間演習を行いました。この重爆撃機は連載NO67で紹介したように立川陸軍飛行場空前の大事故を起こした、不安定そうな形をした飛行機です。2機の重爆撃機は13日には帝都上空で夜襲演習を行いながら三方ケ原に帰りますが、翌日の新聞にはその記事がありませんから、大規模な演習ではなかったようです。
 
108-1.jpg 三菱製カーチスP6機逆立ち
 12月23日、立川飛行場上空で試験飛行中の三菱飛行機製作所製造のカーチスP6戦闘機が着陸に失敗して機首を地面に突っ込んで逆立ち状態になりました。目撃者によれば、三菱のテストパイロット飯島氏が操縦するカーチス機は背面飛行中にエンジンが停止して墜落しそうになるのを飯島氏が必死に操り着陸態勢に入るところで左翼が電柱に触れ機首を地面に突っ込んだものでした。操縦士は幸い顔面を負傷しただけですみました。
 新聞はカーチスP6戦闘機について次のように書いています。“日本一を誇る戦闘機 カーチス機は三菱がアメリカのカーチスP六型戦闘機を基として試作したもので、馬力はカーチス・コンカラ―六百七十五、カーチス超P六型機と称し時速300km今春完成して今夏八月立川の陸軍航空技術部員に公開試験飛行を試みたが、不備な点を発見して改めて二三ヶ所を改造して近く第二回公開飛行を前にしていたもので最も完備した、戦闘機としては日本一の優秀を誇っていたものである。”(「東京日日新聞・府下版」1930.12.24)
 三菱がP6戦闘機を試作したのは、昭和2年2月、陸軍航空本部が甲式四型戦闘機の後継機の競争試作を指示したからです。しかし三菱は当初は別の戦闘機を試作しました。その経過を、「日本軍用機航空戦全史・第1巻」(秋元実著・「グリーンアロー出版社」1994年刊)は次のように説明しています。“三菱はバウマン教授の指導のもとに仲田信四郎技師が設計した隼型、中島はマリー、ロバン両技師の指導の指導のもとに大和田繁次郎技師と小山技師が協力して設計したNC型を提出していたが、審査たけなわの昭和三年六月、三菱が急降下テスト中に空中分解事故を起こして、審査を中断して強度テストを実施した結果、隼型だけでなくKDA3もNC型も強度が充分ではないことが判明、いずれも不採用になった。”この事故で隼型を操縦していた中尾順利氏が、パラシュートで見事に脱出、空中分解する飛行機から脱出した第1号となったことは連載NO53で紹介しました。
 いずれも不採用になったので、仕切り直しとなり三菱が試作したのがカーチスP6戦闘機でした。隼型の事故は所沢で起こっていますが、今回の事故は立川で起こっています。それは、試作機の実用審査の一部が陸軍航空本部技術部で行われるからです。試作機の審査は、設計図や模型による設計審査、完成した飛行機の構造・強度・性能などを試験する基本審査、軍用機としての実用性・耐久性等を試験する実用審査に分かれており、航空本部技術部は設計審査と基本審査、更に実用審査のうち運行試験を担当していました(「戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給」朝雲新聞社1975年刊による)。
 僕もメンバーだった「立川飛行場に関する学習会」は20年前に、陸軍航空技術研究所(陸軍航空本部技術部の後身)安田所長の副官だった大手吉次さんに聞き取りをして、試作機と技研(陸軍航空技術研究所)の関係について次のように説明を受けています。
①技研が航空本部と相談して、将来機に関する目的、要求項目を検討し、どういうものを作るかを決 める 
②技研はメーカーを呼んで「試作を命ずる」として試作機を1~2機作らせる 
③試作機を技研にもってきて技研の優秀なパイロットに所定の性能試験をさせて、試作機の戦術的データを出す。
④たとえば戦闘機の場合は、これで良いとなった時に増加試作機を10機程度発注して、明野飛行学校(部隊の戦闘機乗りを教育する学校)から人を呼び、試作機を渡して検討させる”
 この③が公開試験飛行にあたるわけです。
 三菱は試作をしているのでカーチスP6型の生産ライセンスを買っているわけです。その上、折角作った試作機が事故で壊れ、不採用になったのではメーカーの打撃は大きかろうと思いますが、大手さんは“試作の数となると沢山ありますが、なかなか合格しませんでした。ですが実費買い上げはしますからメーカーには損はさせなかったようです。”と言っています。これが軍需産業のうまみなのでしょう。 
 あいにくこの日は、谷口海軍軍令部長が陸軍航空技術部、民間航空関係会社、飛行場施設などを視察に来ていました。事故が起こったのは視察中の午後11時10分、連載NO35「飛行第7連隊 爆撃精度で海軍機に敗北」で述べたように海軍航空には引け目があるのに、またこの有様です。航空技術部はさぞばつが悪かったことでしょう。

 昭和恐慌1年目の年の暮れ
 大阪朝日新聞(1930.12.21)は、「1930年の記録 米と生糸 政府の対策効なく 記録的の大暴落」と題する解説記事を載せています。「長期経済統計・9」(梅村又次他著・東洋経済新報社1965年刊)で確認してみると、米価は5年前(1925年)の半値以下、繭価は3分1以下に暴落しています。農村の惨状は翌年にはさらにひどくなって行き、1930年には2478件だった全国の小作争議は翌年には3419件に激増します(「昭和九年小作年報」(農林省農務局編・1936年刊による)。
 この年の10月には、立川町でも小作争議が起こっています。「日本民衆新聞第95号」(1930.11.1)は“近在に聞こゆる富豪である岩崎某が小作人7人に畑地に麦の植付けを中止する命令を出し、小作人が反発し日本農民総同盟の応援を得て土地取り上げ反対の争議を起こすことを決めた”と報じています(「三多摩社会運動史資料」大串夏身著・三一書房1981年刊)。麦の植え付け中止を命令した事情は今のところ分かりませんが、石川島飛行機製造所などが移転してきて発展著しい立川町の地主としては、農地を小作に出すよりも宅地にする方が有利なことは間違いありません。
 12月には、未曾有の野菜安などから小作料が納入されないのに業をにやした立川町の26名の地主が小作料10円以上の者に限り、2割引き下げる決定をしました。地主側は次のようにコメントしています。
“唯まけてくれといふ話だけでどの位まけて貰い度いのか一向に切り出さないので、地主側から2割と決定して通知したのです。そして納めないのは値引きせず、極力今年度中に納入するように申渡したが、納まるかどうか判らない。なほ立川でも農民組合でどうこうといっているが、われわれは組合なんか認めない方針である。”(「東京日日新聞・府下版」1930.12.20)
 地主の物言いに身分差別の匂いを感じますが、小作人の生活苦に同情して値下げしたわけではないのですね。因みに、関東地方の水田の小作料率は47%という高率でした(「昭和九年小作年報」(農林省農務局編・1936年刊による)。「小作年報」立川のような畑作地帯の反当たり平均小作料は13.11円とありますが、平均収穫高が載っていないので小作率は分かりませんが、同様に高かったと推定できます。
 都市部の失業問題も悪化する一方で、東京府は「東京府市における失業状態」というパンフレットを1万5千枚刷り、各地方に配布、3000枚のポスターは朝鮮にまで送られました。このことを報じる「東京朝日新聞(1930.11.8)」の記事には“東京へ来たら餓死します”と見出がつけてあります。
108-2.jpg 右の写真は東京のルンペン(浮浪者)1500人が清掃奉仕をしているところです。
 記事は“ルンペン軍は天幕やバラックの巣に駆足で帰って行った。そこには臼井所長さんの心づくしでもう雑炊がフツフツと温かそうに煮られて八百人からのこれらの人たちを待っていた。そして金五十銭のお駄賃と十銭の公衆食堂の食券をもらった上この雑炊のご馳走にありついた一同はもう春を迎えたやうな騒ぎ方、所員も気を利かしてこの日ばかりは十一頃からふろをわかして一同をねぎらっていた”と締めくくってあります(「東京朝日新聞」1930.12.27)。年越し派遣村を思い出させる光景ですが、昭和恐慌は翌年には更に深刻化していきます。

  灯台もと暗し108-4.jpg
  連載NO75「桑の苗なら日本一」で東京府立蠶業(さんぎょう)試験場を紹介しましたが、先日僕が立川落語会や中国語教室でお世話になっている立川市柴崎学習館(新館)のすぐ脇に蚕糸振興記念碑を発見しました。新学習館が蠶業試験場の敷地に建っていることを知って心底驚きました。灯台もと暗し、まだまだ知らないことが沢山ありそうです。

 東京国際飛行場の整備進む
  昭和6(1931)年4月完成を目指して9月1日に始まった東京国際飛行場の建設が急ピッチで進められ、年末には敷地16万坪のうちの5万坪に芝生も植えられます。立川にある東京飛行場はあと3カ月の命です。気付いてみると連載№78の「金解禁以来実施される」以来実に31回に亘って1930年の出来事を扱って来ました。寄り道し過ぎですよね。
  1931年、関東軍は柳条湖事件を起こし日本は長い切れ目のない15年戦争に突入します。1922年のシベリア撤兵(日本軍がサハリン北部から撤兵したのは1925年のことです)以来約9年間続いた“戦間期”は1930年で終わりました。次回は1931年に入る予定です。

写真上    「写真はルンペンの行進」   東京朝日新聞 1930.12.27
写真中   「逆立ちとなった飛行機」   東京日日新聞府下版 1930.12.24
写真下      「蚕糸振興記念碑」      著者撮影      2014.108


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