SSブログ

法然上人の女人往生論 №4 [心の小径]

法然上人の女人往々論(二)2

                                 前佛教大学学長  福原隆善 

 ここで注目したいのは、法然の女人往生論に関する研究が、ほとんど男女を相対の立場でとらえており、これでは法然の女人往生論が女人救済を示しながらも女人蔑視の場が残されてしまう。法然の立場は、むしろ男女をこえた絶対平等で論じられている。
 法然が『無量寿経釈』において女人往生について横断的な意見を述べないのは、ただ第三十五願の立場を示しただけで、結果的には女人差別につながりかねない第三十五願を阿弥陀仏の方便の願とし、むしろ積極的には第十八願の立場へと展開していった。『選択集』において女人往生が論じられないのは、第十八願の男女平等の往生を示すことにあったからである。『無量寿経釈』に、第十八願が男女平等の救済を示しているのに、なぜ第三十五願を説くのか、という問いのありかたによっても知られるところである。(13)これは相対差別の第三十五願から、絶待平等の第十八願への展開を示したものであるといってよい。
 『選択集』第三章の「弥陀如来不以余行為往生本願唯以念仏為二往生本願之文」において、念仏が本願の行とされることについて、『往生要集』の

 問日。一切善業各有利益各得往生一。何故唯勧念仏一門。答日。今勧念仏非是遮余種種妙行。只是男女貴賎不簡行住坐臥。不論時処諸縁。修之不難。乃至臨終願求往生得其便宜不如念仏(14)。

という文を引いて                                 
 念仏易故通於一切。諸行難故不通諸機。然則為令一切衆生平等往生。捨難取易為本願欺(15)。

と述べて、一切の衆生をして平等に往生させるためであることを示している。そしてさらに続けて、

 若夫以造像起塔而為本願者。貧窮困乏類定絶往生望。然富貴者少貧賤者甚多。若以智慧高才而為本願者。愚鈍下智者定絶往生望。然智慧者少愚癡者甚多。若以多聞多見而為本願者。少聞少見輩定絶往生望。然多聞者少少聞者甚多。若以持戒持律而為本願者。破戒無戒人定絶往生望。然持戒者少破戒者甚多。自余諸行准之応知。当知。以上諸行等而為本願者。得往生者少不在生者多。然則弥陀如来法蔵比丘之昔。被催平等慈悲。普為摂於一切不以造像起塔等諸行為往生本願。唯以称名念仏一行為其本願也。(16)

と説いている。易行の称名念仏一行が選ばれたのは弥陀如来自身が因位にあって造像起塔を行なうとか行わないとか、智慧者か愚鈍者かとか、多聞か少聞かとか、持戒か破戒かとか、などのことは往生には何ら関わることではなく、念仏一行のみが阿弥陀仏の本願の行として係わるものであることが示されている。どこまでもすべての人びとが平等に往生することでなくてはならないのである。すなわち智慧者か愚鈍者か、多聞か少聞か、持戒か破戒か、といった相対差別をこえた絶対平等が示されている。
 法然の法語類の『登山状』『十二箇条の問答』『津戸の三郎へつかはす御返事』『鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事』『往生浄土用心』『津戸三郎へつかはす御返事』『浄土宗略抄』『十二問答』『念仏往生義』頑勝房に示されける御詞』などに、相対をこえる内容が述べられていて、法然の基本的立場を示すものとなっている。すなわち、女人として生れたものも、智者も愚者も、すべての人びとが生れつきのままに念仏すれば、そのままに救済されていくことを説いている。生まれつきのままに念仏することを説くのは法然の基本的立場であり、『つねに仰せられける御詞』などにもあって、常に示したものとして注目される(17)。したがって法然のいうところによれば、女人とか男子、智慧者とか愚鈍者、持戒者とか破戒者など、その他さまざまな人びとのありかたを問題にするのではない。称名念仏することによって、すべてが凡夫として救済されることを示したといえる。女人に対して示された、たとえば『大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事』には、『無量寿経』の第十八願を引き、称名念仏のほかの行ではなく、称名念仏以外に生死をはなれ、極楽に生れる方法はないことを強調している(18)。また、『鎌倉の二位の禅尼へ進ず御返事』においても、このことが史実としてあったかどうか問題となるところであるが、この法語上で見る限り、善導の示すところにしたがい、専修念仏を強調しており(19)、『生如房へつかはす御文』においても、仏の願力を信じてただ念仏することを勧めている(20)。これらはすべて、女人であれ誰れであれ、称名念仏一行こそ救済される実践であることが述べられ、あらゆる相対的立場をこえた凡夫というところでの救済論が示されているといってよい。しかもここでは第三十五願が問題にされているのではない。
 したがって四十八願中の第三十五願に示された女人往生の願は、今まで蔑視されてきた女人の苦を救うために誓われたものであり、転成男子の内容が説かれるのも、当時のインドの事情を反映したものであって、阿弥陀仏の聖意からいえば、第十八願に示された念仏往生の願にあるように、男女をこえて念仏の衆生がその身そのままに救われていくことを法然は見抜いているのである。だから第三十五願も、その意を汲んで女人往生の願と呼んだと思われる。すなわちその意味で、今さら女人往生とか女人成仏などいう必要はない。すべてを含んだ凡夫往生が示されたのである。

(13)『昭法全』七五
(14)『昭法全』三一九-三二〇
(15)『昭法全』三二〇
(16)『昭法全』三二〇
(17)『昭法全』四九四
(18)『昭法全』五〇七以下
(19)『昭法全』五二七以下
(20)『昭法全』五四〇以下


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0