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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №14 [文芸美術の森]

《五十鈴(いすず)老母(ろうぼ)》

                            小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                                 学芸員 藤井 明

五十鈴老母像.jpg

                                                五十鈴老母像

 これは伊勢の老舗「赤福」の女主人、故・浜田満寿(はまだます)さんの肖像です。
田中は、昭和20年から40年頃にかけて、伊勢方面によく出かけていました。その用事は二つあって、一つは伊勢神宮の遷宮の際に納める御彫馬(おんえりうま)の制作に関するもの、もう一つは当地出身の彫刻家・橋本平八(はしもとへいはち)に関するものでした。平八は日本美術院に所属して、強い精神性を感じさせる特異な作風で注目されましたが、昭和10年に38才の若さで急逝した作家です。田中は自分より25才も若いこの彫刻家の才能を惜み、彼の顕彰碑を建立したり、作品が散逸してしまわないよう地元の人たちに働きかけを行っていました。浜田さんとはそうした折に知り合いました。田中が90代半ばのときです。
 浜田さんは夫を早く亡くしながら、懸命な努力で経営の危機にあった赤福を見事に再建させた女性です。田中はそんな聡明で自立心の強い女性が好みでした。たちまち彼女の肖像を作りたいという意欲が湧いてきて、彼女に頼んでモデルをつとめてもらうことになりました。ただこの時ちょっとした誤解があり、浜田さんが制作の参考にするためおさげ髪をした自分の若い頃の写真を持ってきて、田中が面喰ったという話が伝わっています。
 作品は木彫に取りかかる前に粘土で形を作りますが、なかなか仕上がりませんでした。107歳まで長生きした田中も、さすがにこの頃になると年齢による視力の衰えで、目で捉えた形と手によって生まれていく形のギャップをなかなか埋めることができなかったのです。
制作を開始して数年経つと、赤福の方では作品がなかなか完成しないことに気を揉みだしました。夏になると何度か小平市の田中の自宅には、赤福から鈴虫の入った虫カゴが届くようになるのですが、これは時候のあいさつに、さりげなく催促の気持ちをしのばせたものだったのでしょう。
  田中が東京藝術大学で学生を教えていた当時、菅原安男という彫刻家が助教授としてつとめていました。その菅原が、田中が制作に苦労しているのを知って、手伝うことを約束してくれました。そして数日後、菅原の助力でようやく粘土の原型が完成、その後木に写されて赤福に引き渡されました。田中がちょうど百才のときで、これが彼にとって最後の創作となりました。ちなみに作品の題名は、伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川から取られました。写真のブロンズ作品は、木彫を作るための石膏原型から鋳造されたものです。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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