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じゃがいもころんだ №71 [文芸美術の森]

姑 中村汀女

                                    エッセイスト  中村一枝

 10年くらい庭の隅に忘れられていた山茶花がつい先頃はじめてピンク色の蕾を持った。山茶花の春である。行きおくれの娘を持つ親の気持ちってこんなものかなと、ふと思った。  
 外にも出よ触るるばかりの春の月
というのは中村汀女の名句である。この句を見ていると汀女その人が浮かんでくる。
 汀女にはじめて逢ったときからおかあさまというより、恰幅のいいおばあさまだった。私が二十二、汀女は五十七、八、並みの五十七、八ではない。お見合いの席ではじめて逢ったとき、まず貫禄に圧倒された。次はその美貌である。髪の毛はそう多いほうではない。いくらかくせっ毛の細い、きれいな髪の毛。私の友人で、長い間フジテレビでメイクアップを担当していた彼女はある日、汀女に当たったことがあるそうだ。「ハンドバッグから小さなくしを取り出してね、ささっ、さっと髪の毛を自分でかるくとかし出したの。その手早いこと、手ぎわのいいこと、見とれちゃったわよ」
 若い頃の写真は何枚か持っているが、さすがに江津湖の精と言われただけのことはある。
 汀女は美しいもの、きれいなものが好きであった。これは何かの本で読んだのだが、三十代の頃、住んでいた下北沢の路上で、名前は忘れたがある女流作家と取っ組み合いのけんかをしたらしい。かけていた眼鏡が路上に散乱するほどの激しさだったそうだ。相手もやはり女流作家である。一人の女性をめぐって口論に及んだ結果だったと言うことだ。
  一見、静かで沈着そのものに見えるが、いったん火がつくと激しい情熱のるつぼがふつふつと湧きたぎるところはさすがに火の国の女である。
 ふだんは私も、汀女には敬意を表しているし、年も違うので、もめごとになったことはほとんどないが、一度だけ、確か、夫が腫瘍のようなものにかかって高熱を発したとき、医療の手当てか、医者の言動をめぐってか、汀女と口論になったことがあった。
 「お母様なんて、大きらいよ。大きらい」
 私は子供のようにわめいて病室をとびだした気がする。家に戻ってから、さすがに気がとがめ、電話をかけたのである。
 「さっきはごめんなさい」
 電話口で泣きじゃくりながら言った。彼女が何を言ったか覚えてはいない。汀女にとって私など、赤ん坊の手をひねるほどのこともなかったらしい。いつもと変わらぬ声と態度でのぞまれて我が身のふがいなさと情け無さが身にしみた。とうていこの人には太刀打ちできない、と思い知った。
 それからも小さな反抗はしょっちゅうしていた気がする。すんなりと言うことをきくのがどうにも口惜しいのである。所詮、無駄と知りつつ抵抗していたけれど、汀女はおそらく蚊に喰われたようにも感じなかったに違いない。ただ、夫と私は大森、汀女は下北沢、と、最後まで別々に暮らした。私の父が早く亡くなって高校生の弟と母が大森に残された事情もあったけれど、古い家父長制度の時代に育った人にとって長男が嫁の実家の近くから動かないのは不本意でもあったろうに、そういう愚痴めいたことはいっさい聞いたことはない。世間できく姑像とはあまりにかけ離れていて、比べものにならないにしても、私は幸運なお嫁さんであったと、今更ながら思う。汀女の亡くなった年齢に近づくにつれて、今まで判らなかったことに少しずつ気付かされ、稀にみる女性だったと思わずにはいられない。汀女の誕生日は四月十一日、私は四月十日である。 


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