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ドイツの労働者住宅団地めぐり №11 [雑木林の四季]

ベルリン(VI) ヴァイセ・シュタット

                              「エルベ書店」店主  多和田栄治

 2010年1月にベルリンの世界遺産になった団地を見学に行ったさい、6団地すべてを回りきる余裕がなくてあきらめた2団地のうちの一つである。ファルケンベルクは遠かったのと、ブルーノ・タウトへの関心に重きをおき、この団地はタウトがかかわっていなかったのが、見送った理由である。
 これまで紹介してきた団地はいずれもタウト設計で、それぞれに変化があり特徴もはっきり認められたとはいえ、やはり共通して強烈にタウト色に染めあげられていた。それを強く感じたのは、この団地を見てからである。
 2010年10月16日の午前中、曇り、ときどき小雨、気温は8~12度ともう肌寒い日であった。
 環状線Sバーンのゲズントブルーメン駅で乗り換え、Uバーンのパラツェルズス・バートで下車した。あとで地図をよくみると、シラーパルク団地に近かった。シラーパルク団地がミッテ区の北端、その北のライニケンドルフ区の南端にこの団地が、つまり区境をはさんで南北に両団地が位置していた。ついでに言うと、シラーパルクに行くさいのSバーン乗り換え駅ヴェディンクとこの日のゲズントブルーメンの両駅は、わたしの使っている2001年作成の地図にはまだ存在せず、開通工事中になっている。ベルリンの壁のため環状線は分断されていて、完成したのは、再統一して10年余がすぎ21世紀にはいってから。戦争の傷跡深いこの地区に生き残った団地が世界遺産に登録されたことにも感慨をおぼえる。
 駅の出口に世界遺産ヴァイセ・シュタット(白い町)Weisse Stadtの案内表示があった。駅から小雨のなかをバス通りにそって東に5分あまり歩いただろうか。まわりは都市計画をまだ書面でみているような新開地といった風景であった。しばらく行くと、右手に南にむかって大きな道路がひらけている。アローザー・アレーである。遠方にその道路をまたいで東西にのびる建物が見える。その建物にいたるまでの右手の道路沿いには長いながい3階建ての住棟がつづく。その長さは280メートル。その裏にも、幅40メートルはある、木々の立ちならぶ長大な芝生の中庭をはさんでもう1棟建っている。アローザー・アレーのわきは、マロニエ、白樺などの植樹帯、歩道、植え込み、住棟となっている。道路の反対側はスポーツ公園や学校のグラウンドがつらなり、建物はなく、広々とした空間を感じさせる。
 団地の名称は当初「シラー・プロムナード」だったが、完成後まもなく「白い町」として知られるようになったといわれている。たしかに、近づいてくる建物全体は一見して白一色、外壁を塗り替えたにせよ、とても1929~31年にできた団地とは思えない真新しい印象をうける。
 この団地建設も、ベルリン市の都市計画局長マルティン・ヴァグナーの指導のもとにすすめられ、設計は建築家オットー・ルドルフ・ザルビスベルク、ヴィルヘルム・ビュニンク、ブルーノ・アーレンズ、緑地空間はルートヴィヒ・レッサーが担当し、プリームス住宅公社Primus mbHが施主となった。3人の建築家は、目前にある団地北端から正面のブリッジ住棟までと、その左方、団地南の3街区に分かれ、建築様式、ディテールにそれぞれ明確な独自性を見せている。
 とはいえ、マスタープランづくりの基本は合理性と経済性、この団地に求められた要件は「ひじょう安く」「小さな平面」だったという。だから1,286戸のうち、1室、最大でも2.5室が全体の80%を占めている。経済上の絶対的な制約のもとで建築家がどこに、どのように独自性を発揮するか。そのためにも、逆に建材や部品、とくにキッチンなど、可能な部分の標準化、画一化、プレハブ化が極限まですすめられた。
 外からの見学者には、階段室やバルコニーの張り出し、枠取り等の様式とその色彩、平屋根まわりや雨どい、玄関扉や窓枠の意匠と色どりに目をうばわれる。
 アローザー・アレーをまたぐ橋上住棟は4階建てである。高い橋脚の上の4階建てだから周辺の3階建てよりも2階分以上は高くそびえ、両端は5階建て、棟の中央上部には南北に時計がとりつけてある。見るからに団地のセンターであり、あたりには公共的な施設や商店が多い。商店はセンターばかりでなく団地の各所にもあり、全24店で日常の生活必需品すべてをまかなることができる。セントラルヒーティングが各戸に暖熱、熱湯を供給し、2つの洗濯工場、幼児施設、医療施設、カフェ等もそなえている。当時はもちろん、今日みてもきわめてユニークな水準を示している。オープンスペースを設計したレッサーは、団地内に人びとがふれ合うエリアを数多くつくり、それは狭く住民向けスペースというより、広く公共利用の緑地帯、遊園地の機能を意図したという。
 団地中央のいちばん高い棟にある2つの大時計は、当初は時報も告げていたにちがいない。ヨーロッパでは1920年代に懐中時計にかわって腕時計が普及しはじめたとはいえ、労働者団地の住民が各自どれだけ時計というものをもっていたかどうか。この時計は住民の生活になくてはならないものだったはずである。団地の中心、正面を誇示する装飾品ではなく、教会や市役所の時計と同じ役割をはたしていた、そんなふうに思えた。
 ヴァイセ・シュタットが完成して1930年代のはじめ、現代団地建設のシンボルとして国際的にも大いに話題になったという。新たな都市構造にあわせ、かつ伝統的なさまざまなモティーフを結合させたとの評価である。ブルーノ・タウトたちの「新建築」のコンセプトから出発しながらも、人口稠密のインナーシティの都市計画パターンとも、農村的な公園都市パターンとも違う。ゲハーク社が建設したブリッツやツェーレンドルフの団地とのコントラストをみせている。
 マルティン・ワグナーがベルリン市の都市計画局長をつとめたのは1926年から7年間、33年には追われ、35年にトルコに亡命しているから、この団地と同時に着手したジーメンスシュタット団地が、かれのドイツ最後の仕事となったのであろう。20年代後半に財政が困窮するなかでこれら2団地のためにヴァグナーは一般会計から1500万ライヒマルクを獲得し、資金を確保したと記録されている。困難な時代になかでの戦いと創りあげられた作品との響きあう関係が具体的にどう現われているのか、わたしには分からないが、世界遺産登録をめざした人びと、評価して登録を決めた人たちはその「何か」を確認しているにちがいない。
 ヴァイセ・シュタットは、出現した当初からある種の輝きをもち、習うべき見本として存在してきたのであろう。いまではまわりには、この団地を核に、建物、住環境ともに劣らぬ立派な中層住宅団地が広がっている。
 帰りみち団地の掲示板に入居案内を見かけたので、一例を紹介しておく。<2階、2室、51.96㎡、基本家賃301.37ユーロ、雑費137.97ユーロ、(暖房費52.26ユーロ)、保証金904.00ユーロ>
 はじめ来たバス通りの北側には、黄葉した木立ちがつづき、小さな古い教会のまわりには瀟洒な戸建て住宅が散在し、近くに学校があるのだろうか、中高生を多く見かけた。いちめんの落ち葉を踏みながらすこし散策し、この地に別れをつげて、ファルケンベルク団地に向かった。


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