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散歩の途中で №8 [文芸美術の森]

うるさい!  

                                 作家・エッセイスト  和田 宏
   
  作家の五味康祐氏は難聴であったが、さほど支障なく会話ができた。それなのに補聴器を使った。当時はマッチ箱より一回り大きく、テーブルの上に置き、それにイヤホーンを繋ぐ。
  使う理由はすぐにわかった。いやな話を聞かない振りをするためである。あるとき打ち合わせでお宅に伺っているとき、何かの依頼のために二人の来客があった。そのかれらの話の途中で、耳からイヤホーンを外してしまった。来客は聞こえていないと思うから、どうしよう、困ったと大きな声で相談している。五味さんはそばの私に目配せをして、むっつりと煙草を吹かしていた。
  人の耳はよくできていて、必要な音のみを選択して聞く。補聴器の欠点はすべての音を等分に拾ってしまうことといわれたが、それを解消する研究も進んでいるという。そのうち家人の嫌味や部長の朝礼など聞こえない製品ができるだろう。
  昔、田舎の少年時代、フルートのプロの演奏会が公民館であった。音楽好きの私は早々と会場に行き、一番前に陣取った。が、運の悪いことに当日演奏家は風邪を引いていたのである。ピアノや弦楽器ならどうということもないかもしれないが、扱うのが管楽器なのである。
  ひどいことになった。ふがふがと鼻の音、鼻水をすする音、はあはあぜいぜいの息遣い、そのなかから「音楽」を聞き取るのである。生涯あんなに疲れた演奏会はない。
  ベートーベンの難聴は有名であるが、ピアノも進化している時期で、どんどん大きな音を出せるようになっていた。おかげで人類は大いなる喜びを得たが、楽聖は作曲に夢中になると、他人のことに頓着しない人だったから、近所はさぞうるさかったであろう。同情を禁じえない。
  しかし人の出す音でもっともうるさいのはピアノでもヴァイオリンでもない。声である。かつて豚の断末魔のような声に苦しめられた。私は声楽家の近所に住むな、と家訓を遺すつもりである。


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