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西北への旅人 №66 [雑木林の四季]

三国志と読書人生 2

                         元早稲田大学総長  奥島孝康

 ところで、話は大きく脇道にそれるが、市島春城(いちしましゅんじょう)随筆に「白帝城と木曽川の奇勝」と題する一文がある。その文中で市島は、木曽川に日本ラインの名を冠することは不適切であって、むしろ犬山城を白帝城に擬するほうが妥当であるとする。私もこの点では市島を支持するものであるが、それにしても中国の「三峡下り」はケタ追いの雄大さである。
 昨年(一九九七年)八月、私は「三峡下り」に招待されて三船中泊の船旅を楽しむ機会があった。かねてから、私は巴蜀の地を踏みたいと考えていたので、その入口にある白帝城と蜀の桟道だけでもよく見ておきたいと思っていたが、その思いは十分に達せられた。この白帝城も三峡ダムが完成すると、大半は水没し、小島になるので、この機会によく見ておきたいと考えていたこともあって、とりわけ、白帝城の印象は忘れがたいものがあった。
 白帝城は瞿塘峡の入口にあり、三方が水に囲まれている。ここから二百キロにわたる三峡の奇観が始まる。劉備は、呉征伐の大本営を設けた猇亭(おうてい)で惨敗するやここに退き、恨みをのみながらいくばくもなくこの地で没した。戦略上の要地であることはいうまでもないが、この他はむしろ劉備が孔明に後事を託した地として有名である。三峡下りの船は、長江北岸の白帝城の下を一気に通過するので、城内の見物はできなかったが、岸や山上の濃い緑を見ながら長江を下ると、一八〇〇年近くも昔、ここまで敗退した劉備軍の惨状など想像したくても想像のつかない美しい山河の風景であった。
 重慶から始まり、武漢で終わる三峡下りは、途中、宜昌(夷陵)と沙市(荊州)とに寄港する。宜昌は劉備が呉軍に大敗を喫した場所であ。、沙市は、その近くの江陵で劉備が挙兵し、赤壁の勝利の後に荊州城を築いたところで、その付近に紀南城址(春秋戦国時代の楚の故城)がある。『三国志演義』の記述の三分の二は荊州付近の話であることからすれば、『三国志』の舞台の真只中にいたのに、夏の暑さの記憶とほこりっぼい街並みの印象のみ強く、『三国志』の世界にいるという実感に乏しかったというのが私のセンチメンタル・ジャーニーの結末であった。
 では、この旅で私は『三国志』の世界に興味を失ったか。とんでもない。ますます関心を深めている。なぜならば、私にとって『三国志』とは男たちの夢の世界にほかならないからである。いずれ空漠たる華中の旅の記憶が覇権を争った男たちのイメージと結びつくことがあるかもしれないし、ないかもしれない。それでいいのだと思う。まだ訪れていない地は無数にある。洛陽では何を思うであろうか。五丈原では何を想うであろうか。楽しみである。
 『三国志』を読む。それは見果てぬ夢を迫うに似た所為である。それは真っ白なキャンバスに各人がそれぞれの好みの色を塗る所為に通ずる。あの壮大な人間ドラマの中には、自分を重ね合わせてみたい人物が必ずいる。
 たとえば、呉の武将呂蒙は関羽を討って荊州を平定したことで有名であると同時に、たいへんな読書人としても知られる。呉の周喩の後継者である魯粛が呂蒙の教養の深さに驚き、「呉下の旧阿蒙にあらず」と嘆じたのに対して、「士別れて三日、刮目して見るべし」と応じた呂蒙の言葉は、いまなお語り継がれている。関羽びいきの私には憎っくき敵役であるにもかかわらず、その人物は敬愛すべき文人であり、なんともアンビバレントな感情にとらわれる。このように『三国志』に登場する人物には、見方を変えれば、いとも簡単に、悪玉が善玉に、善玉が悪玉に変わる者が少なくない。さしずめ、曹操などはその最たる人物といえるであろう。日本版曹操に足利尊氏を擬すれば、その意味が了解されるであろう。
 いずれにしても、『三国志』の壮大な世界は尽きることはない。これからもますます作家の創作意欲をそそることはあっても、減ずることはあるまい。一介の無責任な読者にしかすぎない私にとって、これまでがそうであったように、これからもまた大いに楽しみな『某々三国志』が次々と現れるに違いない。かくして、私の読書人生は今後とも『三国志』とともに歩み続けることであろう。その意味で、『三国志』との出会いほど私にとりハッピーな経験はない。『三国志』を書いたすべての作家たちに対し、この場を借りて、心からお礼を申し上げたいとだけはいっておかねばなるまい。
                 (一九九八年一二月七日 深夜の自宅にて)
      〔横山光輝『三国志16』(潮漫画文庫)(一九九九年一月、潮出版社)〕

『西北への旅人』成文堂


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