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浜田山通信 №91 [雑木林の四季]

渡瀬亮輔さんと二・二六事件①

                                     ジャーナリスト  野村勝美

 2009年10月1日付(№11)で浜田山の毎日新聞販売店のことを書き、戦後その土地に新聞社関係で役員だった渡瀬亮輔さんらが移ってきたと記した。先日、その記事のコメント欄に「渡瀬は母方の祖父ですが、どんな人でしたか」という問い合わせがあった。 はっきり言ってあの原稿を書いた時、私には名前しか記憶になかった。私が入社したのは昭和28年4月、もう60年以上も昔のこと。もともと記憶力が弱く、近頃はモーロクも大分進んでおり、あの時の原稿には、亮輔を亮介、と書き、ある先輩への手紙には良輔と書く始末で、お役に立つかどうか判らないが、大先輩について2、3回書かせてもらうことにする。
 私が入社した時、渡瀬さんは取締役・編集主幹だった。編集の一番偉い人、新人にとっては雲の上の人で接する機会は全くない。同期入社の連中に聞くと覚えているのが何人かいて、入社試験の面接の時、支持政党を聞かれ、社会党や労農党と答えると理由など突っ込まれたという。私も面接は記憶にあるが、面接者は渡瀬主幹のほか工藤信一良編集局長、池松文雄論説委員長らいかにも紳士的な人が多いなと思った。どうしようもないと感じたのは、伊藤実編集次長で「キミは月何回赤線に行くか」ときく。後で皆にきいてみると、こんなことをきかれたのは私一人だったらしく、私はばんだかバカにされた感じでいまだに強烈な印象として残っている。
 いろいろ話をきいていくうちにおぼろげながら当時の渡瀬さんの人物像が浮かんできた。「背筋をぴんと伸ばした伊藤博文のような人」「政治部記者らしい豪放磊落は感じ」。私の印象も明るい豪快な感じである。同期生に波多野裕造さんがいて、見習い期間終了後「英文毎日」に配属され、文句をいったら「よしわかった。しばらくしたら編集に呼び戻してやる」と胸を叩いたそうだ。波多野さんは後年外務省が外部の人材を公募した時、外高官試験を受け、最後はアイルランド大使だった。
 「毎日新聞百年史」(1972年刊)や「毎日の3世紀」(2002年刊)という客観的に書かれた優れた社史があるが、これを繰ってみると渡瀬さんはあちこちに出てくる。なかでも大活躍するのは昭和11年(1936年)の二・二六事件である。(もう77年も昔のことだ)
「陸軍省担当、渡瀬の荻窪の自宅には午前六時ごろ会社から迎えの自動車が来た。陸軍の青年将校の動きから、何かあるのではと予想はしていたが、デスクに“事件の核心がつかめない。陸軍省へ行って真相をつかめ”と命じられた。記事はすべて掲載禁止になっていた。機関銃を構えた兵士があちこちにいて、撃つぞ、と脅かす。しまいには車のタイヤを銃剣で刺され動けなくなったが、何とか三宅坂の陸軍省記者クラブにたどり着いた」
 同じ頃、陸軍省担当の石橋恒喜さんもウナ電で叩き起こされる。「石橋は事件前夜の25日夜相沢三郎中佐が統制派の永田鉄山軍務局長を斬殺した事件公判のもう一人の主役亀川哲也の自宅に立ち寄った。すると和服姿の西田税がやってきて、ひそひそと話していた。玄関にでたら士官学校事件で停職中の村中孝次が軍服姿で現れた。何かあると本社に戻り情報を伝えたが誰も信じなかった」
 二人はそれから2週間帰宅できず、前代未聞の昭和維新、皇道派将校兵士1400人余の一大クーデターを追うことになる。二・二六事件は、その後の支那事変、太平洋戦争へと軍閥政治に利用されていく。渡瀬はこの間一貫して軍の動きを取材してきた。戦後の述懐によると「当時われわれにもっと勇気があり、言論の自由があったなら…と死児の歳を数えるに等しいことではあるが、そんなことをつくづく思うのである」
  当時政治部の渡瀬さんと社会部の石橋さんは、戦後浜田山の南側の西と東、500メートルも離れていないところに住んでおられた。石橋さんの子息は暮に亡くなった白木東洋さん(87号に掲載)。何かの因縁を感じる。(つづく)


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