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西北への旅人 №65 [雑木林の四季]

『三国志』と読書人生 1

                              元早稲田大学総長  奥島孝康

 机のまわりに、『羅貫中三国志演義』、『吉川三国志』『陳三国志』『柴錬三国志』、『北方三国志』を積み上げて、その横に、さらに『横山漫画三国志』を並べてみると、よくもまあ飽きもせずに同じような本を読んできたものだと、家人のみならず、自分でもあきれる。しかし、これこそが読書の楽しみというものである。
 四万十川の源流に近い山村に生まれ育った私は、小学校三、四年生のころ、手近にあつた-むしろ、これしかなかったというべきか ―『吉川三国志』に夢中になり、六、七回くらいは通読したように思う。昔の本は総ルビであったから、小学校低学年であっても読むこと自体は容易であった(もっとも、どれくらい理解したかは別であるが)。しかし、繰り返し読んだのであるから、子供とはいえその楽しさはかなりわかっていたようである。当時、大好物であった[森永ミルクキャラメル]を買つてもらったときなど、屋根の上で日向ぼっこしながら、キャラメルをしゃぶり、『吉川三国志』に読みふけっていた、あの楽しさはいまなお忘れられない。
 そのころ読んだ『古川三国志』には、現在の「吉川英治歴史時代文庫」のように「篇外余録」がついていなかった。そのため、孔明死後の蜀朝がどうなったのか気がかりで、それを知りたくてたまらなかったが、敗戦直後の山村ではそれを知るすべはなかった。そして、その渇きを三〇年近い後になって癒してくれたのが『柴錬三国志』の『英雄・生きるべきか死すべきか』である。すなわち、姜維、諸葛瞻(せん)(孔明の嗣子)、劉諶(じん)(劉備の孫)などの殉国美談は、すでに中年となっていた私の胸をなお熱くさせるものがあったといえば、いかに『三国志』が幼い心に深い印象を刻んでいたかを思い知らされるものがある。それくらい幼時の三国志体験は大きかったのであろう。

 陳舜臣の『秘本三国志』は、『柴錬三国志』と相前後して出た。『陳三国志』は『柴錬三国志』と比べると、文章の上で闊達さを欠き、いわゆる血沸き肉躍る「小説」性に乏しいように思われるが、その深い中国史に関する学識により、中国の大地の「時代の空気」を感じさせるように思われる。それは、あたかも、『司馬信長記』ないし『司馬太閤記』と『津本信長記』ないし『吉川太閤記』との対比に見られるサムシングのようなものである。
  『陳三国志』の「蒼天はすでに死せり/黄天まさに立つべし」という書き出しは、陳舜臣の歴史家としての素養をうかがわせるに足る。この点て、陳舜臣は羅貫中と「おなじ根本の史料を、私は自己流に読み自己流に解釈し、そして推測をまじえて物語をつくった」と述べている。こうなってくると、中国人の血の流れる陳舜臣は強い。彼は根本史料を自在に読みこなすだけではなく、(それは学生時代に中国文学を専攻していた柴錬にもできたことであろう)、中国史そのものが自身の骨肉化しているのであるから、文章上で時代の空気をつくりだすことにかけては、どうしても一日の長があるように思われてならないのである。たとえば、宮城谷昌光の著作は、史料の少ない春秋・戦国の時代を対象としたことが成功の大きな要因ではなかろうか。『柴錬三国志』のリズムのある文体と対比すれば、はるかにもたついた文章であるにもかかわらず、『陳三国志』の存在感の確かさは、中国古代社会を時空を超えて透視する直感力のせいであろう。

 そうした読み方がどれくらい正しいかどうか、私に自信があるわけではない。たとえば、『北方三国志』となると、あのドライなタッチが『三国志』の面白さの別の読み方を示してくれる。つまり『三国志』の書き方に、劉備びいきの吉川、曹操びいきの陳、呂布・張飛びいきの北方などがあってよいのである。北方自身が語るように、三国志というのは、覇者のいない物語、見果てぬ夢の物語」なのである。読者は、多くの登場人物の誰かにそれぞれの夢を託することができるからこそ、『三国志』は多くの読者をひきつけて離さないのではないか。陳舜臣が『秘本三国志』に次いで、まず『諸葛孔明』を書きヽさらに『曹操-魏の曹一族』を書いたことは、ある意味で、彼の心の揺れを示しているのではないかと思つてみたりもする。それくらい『三国志』の登場人物には魅力的な人物が多い。
 しかし、それにもかかわらず、私は『三国志』の真の主人公は諸葛孔明ではないかと思う。志が高いだけではなくて、その誠実な生き方が多くの人びとの共感を得ているのではないか。余談ではあるが、私は常々「志高頭低」という自家製の格言を吹聴している。というのは、早稲田大学にはかねてから「実るほど頭をたれる稲穂かな」という格言めいた言いならわしがあるが、これをもじって、「志は高く、頭は低く」が早稲田人の姿勢でなければならないと私は考えているのである。孔明の志は、当時の三国の英雄たちにとっては共通の志であったといわねばならない。しかし、誠実な生き方となると、誰もに共通しているということはできまい。誠実な生き方ゆえの悲劇となると、これは孔明の一手販売というべきであろう。そこに孔明に対する共感が生まれるゆえんがあるのではないか。
 私かいま期待しているのは宮城谷昌光の『三国志』であり、彼ならどのような『三国志』を書くであろうかと考えると、実に楽しい。宮城谷のあの清明な文章とあの豊かな想像力とが結びついたとき、『三国志』はまた新しい三国の世界を創り出すことであろう。

                   (一九九八年一二月七日 深夜の自宅にて)
      〔横山光輝『三国志16』(潮漫画文庫)(一九九九年一月、潮出版社)〕

『西北への旅人』成文堂


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