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西北への旅人 №63 [雑木林の四季]

四国西南の気風

                              元早稲田大学総長  奥島孝康

 四国西南(宇和島藩) の気風について書きたい。急にそう思った。自分の生まれ育った四万十川上流について考えると、その自然とのかかわりで、少年の日の自分について、次々と思い出が整ってくる。しかし、それはあまりにとりとめがなくて、やはり「宇和島伊達藩一〇万石」といった歴史要素が入らないと、自分の精神史(?)についてすら何事も見えてこない気がする。
 たとえば、こんな思い出がある。青々とした水田にバケツを下げてドジョウをとりに行く。ものの二〇分もすればバケツ一杯のドジョウがとれた。それをまな板の上でミジン切りにしてニワトリのエサとした。だから、ドジョウを人間が食べるなんてことは誰も考えなかった。天気のいい日は、ウサギをかかえてレンゲ畑に出かけ、寝ころんだりした。ウサギは勝手にそこらへんでレンゲを食べており、僕は寝ころんで空を見上げていた。この抜けるような青い空に吸いこまれそうな、身体が浮き上がりそうな気分と、むせかえるようなレンゲの香りが、いまも鮮やかに記憶の底に残っている。しかし、そうした個人的な思い出からは、少しも故郷の気風は浮かび上がってこない。
 幕末の宇和島藩は藩校明倫館を中心として学問の気風が強かったようである。そのせいかどうかはともかく、この土地の人の気風は、極端にサラリーマン的でもなく、極端にズボラでもなく、いわば適度の中庸を保持していたように思われる。どうしてそうなったのかというと、個人的な見解にすぎないかもしれないが、この気風は、仙台伊達藩の荒々しい気風と、南国土佐のカラリとした気風とが接触して、長い年月の間に一種の化学変化を生じた結果、東北の垂厚さと西南の明るさが適度にミックスして出来上がったバランスのよい中庸の精神であり、これが四国西南(宇和島藩)の気風ではないかと思われる。その気風は、四賢候の一人とうたわれ、名君の呼び声高い伊達宗城第八代藩主に体現されていたように思われる。
 理屈をいってみれば右のようなことではないかと思うが、実際、宇和島の人間には、土佐の人間にはない粘り強さと思慮の深さがあり、東北の人間にはない明るさとフットワークのよさがあり、いずれも天性の精神的気風ではないかと思われるほど自然や風土とマッチしている。だからというわけであろうか、土佐人から見れば、宇和島の人間はソロバン高くコスカライ上に、やや軽薄でもあるという評価になるのであろうか。
  四国西南の地が優れた法律家(児島惟謙、穂積陳重)を生み、そのやや北隣では救国の軍人(秋山兄弟)や日本文化の精神性を鼓吹する歌人(正岡子規等)を生んだのはなぜか。それは理屈で説明できるほど単純であるとは思わないが、私は、やはりこの土地のもつ一種の気風というものが、人格形成の上でかなり影響をもっているように思われる。とりわけ、なかなか醒めない集中体質(思い込みの激しさ)はこの地方独特のもののように思われ、自分自身にもそうした気分がある。それがよいか悪いかは別として、四国西南の気風には、法律家のもつ一種の「醒めた眼」のような側面もあり、それが土佐人の「酩酊体質」と結びついた交点に宇和島人ないし南予人がいるような気がしてならない。
 何を言いたかったのか、自分でも判然としなくなったので、これで筆をおくが、特に自分を語りたかったわけではないし、宇和島藩を賞讃したかったわけでもない。それにもかかわらず、四国西南の気風について、じっくり考えて見たいという想いはいまなお強い。伊達藩の気風、土佐郷士の気質、加えて、四万十川流域の風土……これらがミックスしたとき、どんな化学変化が生ずるか、今後ともあれこれ考えてみたいと思う。
 巻頭言として、こんなことを書くのは、ゼミ生諸君がもつ、それぞれの郷土のカラーが本学の四年間でどんな変化を見せたか、これから見せることになるのか、それが気がかりであり、それが楽しみでもあるからだ、といえば諸君はわかってくれるだろうか。
                  〔『西北風』(二〇〇一年三月、奥島ゼミ)〕

『西北への旅人』成文堂


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