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私の中の一期一会 №39 [雑木林の四季]

結果が出なくなり命がけのプレーも終わりを迎えた
                      ~ヤンキースのファンに愛された“ゴジラ”松井秀喜の現役引退~

                                           アナウンサー&キャスター  藤田邦弘

 暮れも押し詰まった12月27日(日本時間28日)ニューヨークのホテルで、大リーグのヤンキースで活躍した松井秀喜の現役引退記者会見が行われ、日米で大きなニュースになった。急遽決まった会見だったというが、80人ほどの報道陣が詰めかけ、テレビの生中継も行われたほど注目が集まったのは当然だろう。松井は日本人メジャーリーガーとして大成功を収めたプレーヤーの一人であり、日米のファンに“ゴジラ”の愛称で親しまれ、心から愛されたスーパースターだったからである。
 「私、松井秀喜は本日をもちまして20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたいと思います。20年間応援してくださったファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います」とやや低い声で、ゆっくりと一言、一言、噛み締めるように松井は言葉を繋いだ。テレビの画面で見る限り、松井の表情は穏やかであった。
 今季シーズン途中にタンパベイ・レイズから戦力外通告を受けて以来、松井に関する良いニュースが聞こえてこなかったから、ひょっとすると「引退を考えているのではないか」と私は気にしていた。
 「チャンスを貰いながら、今季の結果が振るわなかった。これが引退を決めた一番大きな要因です」というコメントを聞くと、モチベーションを含めて、思うようにならない歯痒さが松井自身をかなり苦しめていたことが窺える。
 新聞やネットの情報を総合すると、爆弾を抱えていると言われた松井の両膝は不安がなくなり、今年の体調はここ数年で最高だったそうだ。それなのにレイズでの出場はたったの34試合、打率1割4分7厘、2本塁打、7打点と散々な数字しか残せなかった。いい角度で上がった打球も伸びがなかった。ゴロも外野へ抜けてくれない。誰の目にも明らかに「パワーが落ちた」と映った。もがきながら努力もしたが、パワー不足を自覚せざるを得なかった心境を思うと、とても悲しい気持ちになる。
 松井は常に「チームに必要とされ、勝利に貢献すること」を最大のモチベーションにしてきた男である。メジャー球団からのオファーがない以上、プレーを続ける意義を見つけることが出来なかったに違いない。会見で「やはり来年もプレーしたい気持ちがあったので時間をおいて決断した。寂しい気持ちはあるし、ホッとした気持ちもある」と述べたのは正直な胸の内だろう。
 巨人の4番として活躍した誇りを胸に、10年前にメジャー挑戦を決断した際「命がけでプレーする」と誓って海を渡った。憧れだった名門ヤンキースの一員になった松井は、チームが勝つことが「自分の喜び」であり「ファンの喜び」であると言い続け、ひたむきにプレーしてきたのだ。しつこく纏わりつく日本の取材陣にも嫌な顔ひとつせず質問に答える誠実な人柄が誰の目にも快く映った。好漢・松井秀喜がニューヨークのファンに愛され、チームメイトに好かれたのは当然のことだったのである。「憧れのユニフォームに袖を通して、7年間もヤンキースタジアムでプレー出来たことが最高の出来事であり、最高に幸せな日々だった。ヤンキースで長い時間を過ごすにつれて家族の一員になれた気がする」とヤンキース時代を懐かしく回想している。
 チームメイトだったデレク・ジーターは「たくさんのチームメイトがいたが、ヒデキとは特に気が合った。多くの記者に囲まれ、ニューヨークと日本の双方のファンからの重圧があるのに、彼はいつも自分の仕事に集中していた。ヒデキを尊敬している。ワールドシリーズでチャンピオンになれたのも彼の存在が大きかった」とコメントを寄せている。当時の監督だったジョー・ト―リも「スーパースターとしてヤンキースに来て、すぐに人気者になった。毎試合チームのためにプレーした。彼の監督だったことを誇りに思う」と高く評価しているのだ。ジーターが言うように、ヤンキースの主力として09年のワールドシリーズでは3本のホームランを打ってチームの優勝に貢献し、日本人で初めてワールドシリーズのMVPにも輝いている。翌年はエンゼルスに移籍したが、対戦相手の一員としてヤンキースタジアムに戻った時、ニューヨークのファンはスタンディング・オベーションで“ヒデキ・マツイ”を迎えた。ファンは松井を忘れていなかった。
 しかし2010年以降次第に成績は下降線をたどっていった。エンゼルスでは145試合、132安打、21本塁打、打率274と何とか面目を保った。アスレティックスでの2011年は130安打、12本塁打、打率251と落ち込んでいき、松井の顔から次第に笑顔が消えていったのである。
 そして今年は開幕まで所属先が決まらず、4月30日になってやっとレイズと契約した。5月29日になってメジャーに昇格したが、前述のように34試合で打率147、本塁打2、打点7という成績では最早「言いわけできない」ところまで追い込まれてしまったのである。さぞかし不本意であったろう。
 松井の父昌雄さんは「引退と聞いても驚きはない。膝の痛みが酷くなり08年に引退の危機があったが、その後ワールドシリーズに優勝出来て夢は達成した。日米通算で507本塁打を記録して不完全燃焼ということはないだろう。幸せ者だった。私からこれ以上望むのは酷だと思う」と息子を気遣っている。
 大リーグの取材歴が半世紀に及ぶというニューヨーク・タイムスのコラムニスト、ジョージ・べッシーさん(73)は、この時点で引退を決断することは正しかったという記事を書いている。
 「マツイは09年ワールドシリーズのような活躍はもう出来なくなっていた。パワーヒッターは下り坂を下り始めると元に戻すのはかなり難しい。マツイの日米での輝かしい実績を考えれば、これ以上何が必要だろう。マツイのプライドのためにも、年俸を下げてまでプレーする必要はないと感じている。マツイの功績はヤンキースの一員として充分に働いたことだ。7年間で140本もホームランを打った。チームに献身的で一生懸命にプレーした。日米のメディアと良好な関係を築いた賢明な選手だった。ヤンキースファンはマツイのことを決して忘れないだろう。紛れもない“ヤンキー”として認められるだろう」
 日本球界に戻るという選択肢はなかったのか?という質問には「ユニフォームを着てグランドには立てるだろうが、本当にいいプレーを期待してくれるファンに応えられる自信はない」ときっぱり答えている。
 私は星陵高校の松井が92年夏の甲子園で「5打席連続敬遠」というシーンをテレビで見ていたので、その印象が強く残っている。確かに当時の松井は高校生離れのした強打者として知られていたが、全打席で敬遠されたため松井は一回もバットを振らなかったのである。いくら勝つためとはいえ、高校生に指示する作戦ではないと腹を立てて見ていた記憶がある。以来、明徳義塾の馬渕史郎監督にはいい印象を持っていない。
 松井引退で取材を受けた馬渕監督は「社会問題にまで発展し、17,18歳の選手にイヤな思いをさせてしまったとその後も気になっていた。身体の大きさ、スイングの速さなどパワフルな打撃に衝撃を受けた。20年経ってもまだ言われるんだから」(笑い)とスポーツ紙に出ていた。当たり前だ、何年経っても言われることを覚悟しておけ!
 その試合でマウンドにいた河野和洋さん(38)は「あまりいい記憶ではないが、松井が甲子園は原点という趣旨の発言をしているのを聞き、救われた気がした」と言っている。河野さんは千葉県柏市の日本語学舘大学に勤める傍ら、クラブチーム「千葉熱血MAKING」の監督兼選手として活躍しているそうだ。確かに敬遠も作戦の一つだが、強い相手にも正々堂々と戦う監督であって欲しい。
 その河野さんは、もう一度彼に会えたら「お疲れ様でした」という言葉しか浮かばないと言っているが、日米で20年間も頑張った松井秀喜には「お疲れ様でした」の一言が一番相応しい労いの言葉だと思う。

 因みに、松井に「ゴジラ」と命名したのは、元日刊スポーツ記者の福永美佐子さん(旧姓赤星さん)で星陵高3年、春のセンバツで命名した。「下半身が大きくて犬歯が特徴的なところから浮かびました」というのが理由とのこと。


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笠井康宏

藤田さん、おはようございます。明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。甲子園の連続敬遠は5でしたね。間違えました。
by 笠井康宏 (2013-01-01 06:20) 

笠井康宏

藤田さん、こんばんは。明徳義塾の監督は勝つ事を最優先させた訳で、高校野球の主旨に反する行動をしましたね。顰蹙を買って当然です。私が当時、気の毒に思ったのは松井は勿論、明徳義塾の選手達です。翌日のテレビ、新聞のバッシングが物凄かったですね。次の試合で動揺しせいか、明徳義塾はあっさりと負けましたね。全く選手達に非はありません。心に負った傷は相当深かったと思います。プロ野球の監督と履き違えてますよ。高校野球の監督失格の勘違い男です。
by 笠井康宏 (2013-01-02 21:55) 

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