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往復書簡・広島あれから67年 №15 [核無き世界をめざして]

広島あれから67年 15

                       エッセイスト  関千枝子・作家  中山士朗 

 関千枝子から中山士朗さまへ
 このところ、いろいろ日程が混んでいて、お返事がすっかり遅くなってしまいました。
 気づけばすっかり「秋」になり寒いぐらいです。
 被爆者でなくて、原爆のことを伝えることに熱心な方のことを紹介したいと思い、まず、この間、本を送った「ヒロシマ原爆地獄」の河勝重美さんのことを書こうと思っていたのですが、次回にして、今回は、茅ケ崎市で毎夏、原爆の朗読を続け、20回近くになる宇都純子さんのことを書こうと思います。なぜ、宇都さんを、と言いますと、ちょうど今、宇都さんの来年の公演で似島を取り上げることになり、私、今、原稿を書いているのですが、あなたの下級生・池田昭夫君のことが物語の芯を貫いていく構成になります。中山さんの 『わたくしの広島地図』から、中山さんと池田君の母・ハルヨさんが1985年に島を尋ねられる場面を選び構成しているのですが、ハルヨさんが息子さんへの手紙を読む下りで、胸が詰まり、涙が出てきました。ハルヨさんが亡くなってもう35年になるのですが、子を失った親の無念の思いが、今もあの美しい似島の海、波の間に漂っているような気がしてきました。
 宇都さんは、プロの俳優、声優ではありません。公民館の朗読の講習に参加されたことから朗読に興味を持ったと言われますが、普段は、福祉の施設で働いておられ大変忙しい方でもあります。宇都さんが、なぜ、原爆に関心をもたれたか、それは知りません。私が紹介された時はもうすでに何度か会を開いておられ、茅ケ崎では、知る人ぞ知る存在です。
しかし、茅ケ崎のような中都市で毎年、原爆の朗読会を開くのは、大変なことです。8月6日の前後の日曜日に小さな会場(スペースといった感じのところ)で開くのですが、昼と夜と2回公演です。1回だけでは会場費だけでも赤字になるそうです。1回に集まるお客さんは40人くらいでしょうか。茅ヶ崎くらいの規模の都市で、朗読で100人近くの客を集めるのは、大変なことだと思います。
私の本を朗読してくださったこともあり、何回か伺っているうち宇都さんが、広島には1,2度しか行ったことがないと言われるので、私の「広島の少年少女たち―疎開地後片付け作業で死んだ子どもたちの慰霊碑を歩くツアー」にお誘いしたところ、参加してくださったのです。その時、これも何度かお話しした竹内先生(熱心なヒロシマ修学旅行の先生)も来てくださったので、二人を紹介し、また新たな縁ができました。
今年、8月8日、竹内先生の案内による似島フィールドワークが実現、40人近い参加者がありました。広島在住の方が多く、資料館の平和ボランティアの方が似島に行ったことがないから、と言われるのに驚きましたが、これに宇都さんも、朗読公演を終えたばかりなのに、広島に駆け付け、参加してくださいました。宇都さんはもちろん似島は初めてで感銘を受けたようです。かくいう私も毎夏広島に行っているのに似島に行くのは、66年ぶりでした。
私はまた、竹内さんたちが用意した資料の中に池田昭夫君のことがあるのに驚きました。池田君のことは中山さんの文章で印象が強かったのでよく覚えていました。しかし、似島に関してはたくさんの資料があるのに、池田君のことが選ばれる、これはなんという縁かとも思いました。そして、この兵士や池田君のお父さんの手記に中山さんの文章を加えれば、きっと胸を打つ朗読になると思い、宇都さんに提案したところとても喜ばれ、「私も、ぜひ、来年は似島を取り上げようと思っていたのです」と言われました。
朗読ですから、そして朗読するのは基本的に宇都さん一人ですから、あまり長くても行けません。長さのことを考えながら、「似島物語」を構成しています。中山さんにも聞いていただけたら嬉しいけれど、これは無理でしょうね。


 中山士朗から関千枝子さまへ
 前回のお手紙が届いて間もなく、関さんから『関千枝子・狩野美智子往復書簡―広島長崎から 戦後民主主義を生きる』(彩流社)、日英2カ国語版『ヒロシマ「原爆地獄」』(編集・河勝重美/ヒロシマ「原爆地獄」を世界に広める会)竹内良夫氏制作の、関さんの“広島の少年少女たちの死をめぐって”というテーマで編集された『フィールドワークマップ』を頂戴いたしました。
これらを通読して、改めて関さんが生きてこられたこれまでの軌跡をたどりますと、自身の被爆体験をもとに、戦争を知らない世代の人びととの交流を通じて、共通の認識の上に立って行動されようとする姿勢が強く伝わってきます。それと同時に、原爆と直接の関係はないのに、しかもそれぞれが立派な社会的地位にありながら、終生、原爆の問題にかかわってこられた方々の存在を知り、畏敬の念を覚えずにはいられません。
今回の手紙のなかに書いてありました、毎年茅ケ崎で原爆の朗読公演をされている宇都純子さんもそういった方です。宇都さんは二年ほど前に、池田昭夫君と同じ広島一中一年生で被曝死した三重野杜夫君について朗読された方ではなかったでしょうか。このことは杜夫君のお姉さんの茶本裕里さんから聞いていました。
こうした方々の存在を知ることは、年齢を重ねた被爆者にとって、どんなに心の支えになることか。年月の移ろいにしたがって、人々の記憶から六七年前の出来事が薄れていく日々にあって、この方々のお仕事に触れることは、関さんにしても、私自身にとりましても、残されたしごとを続けて行く上で大きな励みになっているのではないでしょうか。
本来ならば、今回送っていただいた著作物について、それぞれの感想を述べたいのですが、紙数も限られていますので、これまでの関さんとの往復書簡のなかで、ご返事しなければならないのに、横道にそれてしまったことがらがいくつか残っていますので、頂いたご本のなかから関連した箇所にふれながらご返事したいと思います。
河勝重美氏が編集された『ヒロシマ・原爆地獄――生き証人の描く被爆者一人ひとりの生と死』を開いておりましたら、九二ページの赤いトマトを食べながら歩いている幼児、青いトマトをねだった少女の絵が描かれているのが目にとまりました。
 この絵を見た瞬間、私はいつか関さんから記憶に残っている食べ物についてたずねられたのに、いまだに返事していないことに気づきました。たずねられたとき私はすぐにトマトとカボチャ、キュウリを思い浮かべたのですが、そのときたまたま今田氏のキュウリの話が出てきたものですから、横道にそれてしまいました。
この二枚の絵は、それぞれ別人によって描かれ、次のような説明文が添えられていました。
井上忠雄氏の筆になる幼児には、<八丁堀八月六日 爆心地より八〇〇メートル 八丁堀あたりで三歳くらいの幼児に会った。赤いトマトを食べながらトボトボ歩いていた。真っ黒く焼け焦げていた。全身、前も後ろも右も左もまともな皮膚の色は無かった。この十時間をどこでどう過ごしていたか。>
中津久子さんの筆による少女には<八月七日 焼け残った木の僅かな陰で 私は保育園の大やかんに青いトマトを入れていた。やかんの音に「オミズオミズをください」という。「お水でないのよ。トマトなの」「トマトトマト大好き」「青いトマトよ」「青くてもイイ、チョウダイ」。言われるままに白くただれた両手に載せてやったが、あの手、あの唇でどうやってトマトの汁を吸ったのだろう。後悔>
この二枚の絵が目に飛びこんできた瞬間、私がしきりにトマトを欲しがるのを見た父が、夜陰にまぎれて他家の畠からトマトを盗んで私に与えたことを思い出しました。青臭い匂いの残った、小さなトマトでしたが、私はむさぼるようにして食べました。わが家の家庭庭園に辛うじて残っていたトマトは、あらかた私が食べていたのでした。「わしは、この子がもう助からないと思っていたから、生まれてはじめて泥棒をした」と父が告白したのは、ずっと後年になってからでした。
今では一年中店頭に並んでいるキュウリ、トマト、カボチャですが、本来は夏の季節のものでした。


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