詞集たいまつ №56 [雑木林の四季]
さばく章
ジャーナリスト むのたけじ
(2086)便利は時に飛んでもない不便を招くだけでなく、不幸を招く。ごまかしの親切としんじつの親切を同じ声帯で言える。これがどれほど悲涙のたねになったことか。
(2087)「毒を食らわば皿まで」を辞典は「一度罪悪を犯した以上、徹底的に罪悪を重ねる心情」と説いている。おかしいね。その心情は徹底ではなく、やけくそではないか。そこを取りちがえるから、毒と皿との見分けもつかなくて歯医者の仕事をふやすのだろう。
(2088)晴天が続くと一雨ほしいと言い、降り続けるとテルテル坊主を下げる。苦労が重なると死にたいと言い、安楽になると退屈だと言う。人間の願掛けに応接できる神サマがどこかにおりますか。
(2089)何十年も前ですが、バリ島デンパサル市のホテルで「以前にチャップリンさんが泊った部屋ですよ」と支配人が自慢げに案内したその部屋で、なぜか私は安眠できなかった。
チャールズ・チャップリン〔一八八九-一九七七)の演じた滑稽は、私もあなたも誰もが持っている背中のようなものだ。それをチャップリンは、彼だけの臍みたいに演じた。それで私たち観衆は安心してゲラゲラと笑って拍手した。でも観衆の一部はスクリーン上の動きに自分の臍を見て笑わなかったであろう。笑っても笑えなくても人々はチャップリンのとりこにされた。稀代の役者でしたな。しかしチャップリンはいつも自分の周囲に亜熱帯の寒波を覚えて、昼も夜も孤りだった気がする。
(2090)映画や芝居の人物のやることなすことは、こさえ物のうそと知りながら人々はまねたがる。ゼ二を払った見世物だから。人々が日常やることなすことには、無数の本当の教訓が含まれているのに誰もそれに学ぼうとはしない。無料の見世物だから。
『詞集たいまつⅣ』評論社
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