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じゃがいもころんだ №23 [文芸美術の森]

進軍ラッパ

                                    エッセイスト  中村一枝

 十五歳年の離れた弟がいる。他に弟妹はいないからたった一人の弟ということになる。最近、気がついたことだが、彼と私との間にある年代の差、例えば、住んでいた家のことで、
「ほらさ、八つ手なんか植わってた、日当たりの悪い庭よ。おぼえてるでしょ?」
 と言っても彼はきょとんとしている。そうかあすこは戦争中にいた家で弟は未だ生まれていなかった、と気づく。
 弟が生まれたのは私たち家族が伊東に疎開していたときで、まさに「川のほとりの小さな家」で生まれた。「玉のような男の子」とよく童話に出てくるその表現が本当にあるんだと実感したくらい美しい男の子だった。私の中学の仲良し三人組で、弟を守る会というの作った。余りきれいな子だから変な女につきまとわれたら大変だ、と子供心に思ったらしい。その効果が大きすぎたのか、彼は六十を過ぎてなお独身である。
 子供のときから、自家中毒で、何度も病気をした。そのころ東京の高校に通っていた私は母方の叔父の家に下宿していた。「ヒョウジ(弟の名)キトクスグカエレ」と電報がくる。多分まだ電話がなかったのだろう。その度に私は学校を早退し、できたばかりの伊東線(今の伊豆急の前)に乗って帰った。
 今にも折れそうにきゃしゃで、ひよわな弟を、これ又、ふだんより一層細々としてしまった母がおろおろしながら付き添っていた。
  十五年ぶりに生まれた赤ん坊、それも男の子ということで、当時の父は天の授かりものだと思っていた。それだけにその大事な宝物をひょいと横取りされそうな不安に常にさらされていたに違いない。それは母も私も同じことでこんなにきれいな子が本当に無事に育つのか、いつか突然、幸福がかっさらわれるのではないかという思いを抱いていた。 
 弟は体こそ余り丈夫ではないが、三年前、母が九十八で世を去るまで献身的に母を介護してくれた。子供の時から病気がちだった弟は弱者の立場ということを身を以て知っている人だった。母の介護はまさにそれを具現していたようなものであり、彼でなくてはできない愛情あふるる介護だった。
 同じ姉弟でも、何につけ大ざっぱでがさつな姉は細やかな弟の神経を逆なでしつつ、それでも喧嘩もせずにこの年まできてしまった。年が離れているから、いわゆる姉弟喧嘩の経験もない。私にとってはずいぶん長いこと小さいかわいい弟だったのにその彼も老年に近づいている。
 新婚ホヤホヤの朝まだき、小学生の弟に突然寝室の奇襲攻撃をかけられて、夫も私もあわてふためいた思い出がある。でも弟は当然のことだが、何も覚えていないそうだ。弟にしてみればそれまでお姉ちゃんだった人がよその人になる。それも自分よりずっと年の上のおじさんみたいな人がお兄さんになるというのはすいぶん変な印象だったのではと思ったりする。
 中学三年で父とわかれた弟は父の葬儀の前だったか、たまたま家にあったラッパを持ち出して表で吹いた。夜だった気がするのだが、それが私には父を失ってやりきれない弟のどうこくのように聞こえたのだが、後できくと当時西部劇にこっていた弟が西部劇の中の進軍ラッパを真似して吹いたそうである。
 何十年も前の、二月十九日のことで、雪もよいの景色の中で、私の記憶に深くきざみこまれている。


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