SSブログ

立川陸軍飛行場と日本・アジア №53 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

玉音放送、立川にも流れる

                           近代史研究家・高校教師  楢崎茂彌

 153機の大編隊、立川上空から大観兵式に向かう
 12月2日早朝、立川陸軍飛行場に揃った87機は第五連隊の兵卒の手で飛行場の両側に押し進められ四列に並べられると、午前8時30分古谷総指揮官の訓令のあと全員が搭乗、白旗の合図と共に8時55分、古谷総指揮官が同乗する三方原飛行第七連隊の八七重爆機が離陸しました。残念ながら帝都防衛を担う第五連隊が先頭ではありませんでしたが、第七連隊は立川生まれ(連載NO30)だから許しましょう。各機は「点火」の号令によって黒煙や砂埃を巻き上げながら、第五連隊小笠原指令官機、軽爆撃機三機、重爆五機、所沢・下志津・明野各飛行学校、第五・第二・第四・第六・第八各連隊の順で偵察機が次々と飛び立ちました。平壌や台湾からも参加しているのですね。先頭の重爆撃機が所沢上空にさしかかったのを合図に、所沢に控えていた徳川大佐指揮する戦闘機66機が飛び立ち、立川から来た編隊の後に付きました。重爆機を先頭とした153機、長さ8キロに及ぶ大編隊は三多摩上空を旋回すると立川上空を通過し、多摩川沿いに品川に向かい、渋谷の上空から代々木練兵場を目指します。予定では9時29分に大編隊は練兵場上空に現れ、玉座500m前方高度600mで指揮官古谷少将同乗機が投下する花火が国旗を吐いて空中に舞い、これを合図に各機の搭乗者が不動の姿勢をとり水平飛行で敬礼を行うことになっています。

 大観兵式
 この日の午前5時頃から、近衛師団14000、第1師団9500、士官学校等各学校生徒隊4500、各師団代表7000名など合計35000の将兵が代々木練兵場(現・代々木公園)に結集し始めました。軍馬4000匹や戦車・高射砲・照空車などの近代兵器も勢揃いです。53-1.jpg
 8時45分に軍楽隊が君が代を吹奏し、各部隊の大隊長が「捧げ銃(つつ)」と号令をかけました、大元帥陛下である昭和天皇の到着です。天皇は玉座に着くと、やがて黒鹿毛の愛馬初緑に跨り閲兵を開始しました。付き従うのは閑院宮、高松宮、伏見宮、久邇宮、梨本宮です。空の宮様と呼ばれた山階宮の名前がありません。実は山階宮は大正天皇の大葬にも参列していません。昭和の初めには病状が悪化していたことがわかります。閲兵が終わり天皇が再び玉座に着き各部隊が分列行進の準備にかかり始めた時、轟音と共に大編隊が姿を現しました。その様子を東京朝日新聞は“午前九時三〇分大空中分列行進が開始され古谷指揮官の座乗する重爆撃機を先頭に三機・五機・九機の編隊を張って隊形も美しく、長河の如き空陣を張って渋谷口から式場上空にいり、一五三機の勇ましきこの空中行進が行われた。陛下にはこの空の分列をいとも御丁寧に御親閲遊ばされ地上の分列行進と相和して未曾有の盛観を呈し、その全機五万馬力の爆音は打ち寄せる波の如く代々木の天地にこだまし機影は薄ずみ色の空を背景に延々として続き、玉座の前に華々しく分列行進して大観兵式の空を飾った。”(1928.11.11)と報じています。壮観だったに違いありませんが、空の分列行進の写真は手に入っていません。このあと10時50分に昭和天皇は玉座の前に馬を進め、陸軍士官学校生徒隊を先頭に35000の将兵の分列行進が始まりました。行進は実に40000mに及び終わったのは11時10分でした。天皇は下馬すると再び玉座に上がり陸軍に賜る勅語を読み上げました。

 玉音放送流れる
 この様子を翌日の東京朝日新聞は“勅語の玉音朗々と 全国に放送さる きのうの大観兵式において 中継放送の大成功”との見出しで“空前の偉観を呈した二日の大観兵式の実況を眼前にほうふつせしめるため東京放送局では前もって代々木練兵場玉座の横に二ヶ所、神宮橋の一ヶ所のマイクロフォンを設置し、殊に玉座の後陪観席座敷後ろには三十尺の高塔を築き白布で装飾し松田アナウンサー始め技術部員が十名出張し苦心した効があって、午前十一時十五分天皇陛下の勅語御朗読の如きはマイクロフォンの位置が四、五十メートルも離れていたのに拘わらず朗々たる玉音は明瞭に入って、全国の人々は畏れながら居ながらに拝聴するを得たのみならず、白川陸相奉答文朗読も又はっきりと聴取され大成功を収めた。放送局では予想以上の成績に大いに意気込み、来たる十三日上野公園で行れる東京市奉祝会の際も玉座から三間位の所にマイクロフォンをすえ付けるはずであるが、陛下の勅語御朗読の時は、マイクロフォンが余りにお側近いので御遠慮申し上げスイッチを切るが、市来市長の奉答の辞は是非入れたいと大した意気込である”と報道しています。玉音放送に成功した日本放送協会が、東京市奉祝会ではマイクのスイッチを切るのはどういう訳なのでしょう。
 「20世紀放送史」(日本放送協会編)は、天皇の声が放送にのったことを“放送関係者は色を失うがお咎めはなかった”と書いています。実は、日本放送協会は11月10日の即位礼当日の勅語朗読を中継放送することを申し入れて断られています。大観兵式では、風の向きとマイクの予想以上の感度の良さで勅語が放送にのってしまったのが事実のようで、日本放送協会・逓信省・陸軍省は慌てて翌日に宮内省に釈明に出掛けています。宮内省では議論があり、今回はお咎めなしとするものの、「“いながらにして玉音を拝するのは恐れ多い極みである”とする意見が通り、以後放送にのせないことを決めた」と東京日日新聞(1928.12.4)は伝えています。5日には逓信省が放送取り締まりの通達を出し、これを受けて東京逓信局長は10日付けで観兵式、大演習などの実況中継では、アナウンサーの声が天皇に聞こえたり、天皇の声がラジオに入らないように措置を命じました(「20世紀放送史」による)。13日の東京市奉祝会の中継では、天皇の勅語朗読は空白の時間となりました。これ以降天皇の声は1945年8月15日まで放送されることはありません。それにしても、新聞の天皇の写真は寝転がって見ることが出来るのに、なぜ声は居ながらにして聞いてはいけないのでしょうか。その理由をこのブログに「ラジオの時代」を連載していた竹山昭子さんは、居ながらに聞くことを不敬とする見解と共に、“新聞の天皇の写真は静止した画像で、間接的訴求であるのに対して、ラジオからの声は人間的生々しさを伝え、聞き手の感性に直接訴えるメディアである。そのリアルさが現人神天皇の尊厳を損なうという見解があったのではなかろうか。”と推量しています。天皇はニュース映画にも登場しますが、一回性があり修整がきかない中継放送には、言い違え等の危険が伴います。8月15日の玉音放送も録音で、しかも2回も録音をくり返しています。でも録音による声も放送させなかったことを考えると、竹山さんの見解は頷けるものだと思います。

 横浜港で大観艦式行われる53-2.jpg
 陸軍の大観兵式の後は、海軍の番ですが、翌日は在郷軍人(現役2年を経験し予備役・後備役にある者・有事には召集される)への御親謁が二重橋前で挙行されました。当日はあいにくの雨の中で閲兵と在郷軍人21700名による分列行進が行われました。
 大観艦式は大観兵式の二日後にあたる12月4日に東京湾で行われました。横浜港外に200艘の軍艦が東北東15km幅5㎞の長方形に整列、御召艦榛名の礼砲を合図に200艦が一斉に21発の皇礼砲を発射すると、9時20分ころ昭和天皇が榛名に乗船し式場に向かいました。東の空からは130機余の海軍機が編隊を組んで現れ、天皇旗を翻す御召艦榛名の上空で敬礼をして西に飛び去っていきます。間もなく君が代が吹奏され天皇は前艦橋の玉座に立ち、榛名は5列に整列する各艦の間を白波を立てて進んで行きました。海軍の大観艦式は格好良いですよね。横浜港内には200艘以上の満艦飾をした拝観船がひしめきました。芝浦や隅田川からも拝観船は繰り出し、海の拝観者は15万にも及んだようです。この日の横浜港内外は風が強く転覆した船もあり、新聞は“命がけの拝観船団”と報じています。陸上の見物者は横浜港周辺だけではなく川崎の埋立地の岸壁にも押し寄せ、この日の人出は100万人を越えたと報じられています。夜はイルミネーションまでして、海軍にはサービス精神があるのでしょうか。

 二重橋前で8万人余りの若人が分列行進
 即位を祝う行儀はまだ続きます。12月6日の東京朝日新聞は“けふ御親閲を仰いで小国民の意気揚がる”という見出しで少年団日本連盟の全国代表4200人等の少年達を天皇が閲見した様子が報じられています。少年団日本連盟とは当時のボーイスカウトのことですが、海洋少年団・幼年健児団の少年なども参加、本土だけでなく台湾・朝鮮の少年達もこの行事に加わりました。当日は築地にあった海軍大学の卒業式にあたり、閲見は構内の広場で行われ、式後少年達は特に拝観を許可されて新宿御苑に向かいました。
 12月15日早朝、東京・神奈川・千葉・埼玉・山梨の青年団・青年訓練所・中等学校・専門学校・在郷軍人代表・女子団体などの若人達が二重橋前広場を目指しました。各地の青年団には割当数が決まっていて、立川町12名、府中町19名、砂川村16名、昭和村13名、村山村17名、大和村14名等々…北多摩郡合計342名、なんだ立川町はまわりの村々に負けてますね。この日の交通機関は、立川・砂川・昭和・村山などは中央線利用、八王子・府中などは京王線などと指定されており、引率される各青年団の集合場所は芝公園でした。
 当日は雨が降りしきる天候でした。整列する青年達が雨に濡れていることを知った天皇は玉座に張られた天幕を取り去ることを指示し、これを知った若人達は天皇が午後2時に二重橋に到着すると一斉に万歳を叫んだと新聞は伝えています。降りしきる雨の中、麻布連隊区内の在郷軍人4000名を先頭に分列行進が始まりました。壇上の昭和天皇も1時間余り雨に打たれながら立ち続けました。この様子を「朝日クロニクル 週刊20世紀 1928」は次のように描いています、天皇が天幕を取り払う指示をしたことを“耳にした青年達は、一斉に外套を脱ぎ去った。やがて定刻となり、壇上にのぼった天皇は、マントを脱いだ青年たちを見るや、自らもマントを脱ぎ捨てたのである。参列した軍人や大臣も、あわててそれにならった。冷雨の中、まさに劇的な光景であった。”マントのことまでは確かめることが出来ませんでしたが、天皇と共に雨に濡れた分列行進は青年達に君臣一体を実感させる出来事だったに違いありません。満州事変まであと3年です。
  

 電通機、奈良県山中に墜落
 即位大礼関連の報道競争がくり広げられる中、11月19日に櫛部喜男飛行士が操縦する日本電報通信社(現・電通)機が三重県明野飛行場から京都深草練兵場に向かう途中、奈良県上空で行方不明になりました。目撃証言に基づく奈良県警・消防団・在郷軍人会による必死の捜索の結果、26日に奈良県室生村山中で機体が発見されます。機体はひどく壊れ、櫛部操縦士と水代藤松機関士は機体の下敷きになり惨死していました。櫛部飛行士は明治大学で学んだ後、逓信省航空局委託操縦生となり、所沢陸軍飛行学校を卒業、立川の御国飛行練習所(山階宮が経営)と日本飛行学校の教官として活躍し、そのあと日本電報通信社に入ったという経歴を持つ、立川にゆかりの深い人物です。櫛部操縦士の御母堂は“日頃は至って清順で他人のためなら何をおいてもする、決していやと言えない義に堅い一面を持て居りました”と語っています。
 12月5日に青山斎場で葬儀が行われ、立川町は花輪と弔辞を送り中島町長が参列する予定だと、東京日日新聞は報じています(1928.12.4)。記事は“櫛部・水代・岩田三氏の葬儀”と書いており、「昭和2万日の記録・1」(講談社刊)も、“大礼報道で各新聞社が速報競争をくり広げるなか、日本電報通信社(現電通)所属のパイロット櫛部、水代、岩田の三氏が、写真と原稿を空輸中、濃霧のために墜落死”と書いています。岩田氏のことは今のところ不明です。

 立川で訓練中の戦闘機からパラシュート降下53-3.jpg
 立川に格納庫を置く朝日新聞社と東京日日新聞社は即位の礼報道では飛行機事故を起こしていません。この年の8月22日に、立川陸軍飛行場に臨時出張し訓練をしていた宮沢太郎明野陸軍飛行学校教官操縦の甲式四型戦闘機が飛行場上空できりもみ状態になり落下し始め、宮沢少尉は1700mの上空でパラシュートで脱出し、機体は日野の水田に落下する事故が起こっています(右の写真)。「立川飛行場物語」はこの事故に触れ“飛行機乗員とパラシュート、大きな事故で実際に使われたのはこの時が初めてではなかったのでしょうか”(第66回)としています。事故を伝える東京日日新聞は“落下傘にぶら下がって又も危ない命拾い”という見出しを付けています。初めてかどうかが気になるので調べてみました。
 落下傘は大正11年イギリスから招いたセムピル航空団が追浜海軍航空隊で気球からの降下訓練を指導したのが始まりです。この訓練には陸軍からも飯島工兵中尉が参加し、所沢に帰ってから部下を訓練したものの、陸軍としての正式な訓練は始められませんでした。この間の事情を「陸軍航空兵器の軍備と運用」(「戦史叢書)は“航空機愛護の精神を強調し、パイロットが自己の安全を図って飛行機を棄すなどは武士道精神に反するというような考えがあったからである”と説明しています。初めての陸軍機からの落下傘降下は昭和2(1927)年に立山武雄中尉が所沢飛行場上空400mから行ったと記録されています。
 昭和3(1928)年6月13日に所沢陸軍飛行場でパラシュート脱出事故が起こりました。この時期には陸軍は川崎・三菱・石川島の三社に戦闘機の試作を命じており、この日は三菱製戦闘機の試験飛行を三菱専属操縦士中尾順利氏が行っていました。ところが試作機は上空1000mで空中分解し中尾氏は落下傘で命からがら脱出したのです。記事は“飛行機の空中分解に落下傘を以て危難を免れたのは本邦航空界初めてのことである”(読売新聞1928.6.14)としているのですが、この書き方では最初の脱出例かどうかは微妙な所なのですが、時期的に最初ではないかと思います。海軍はこの年に落下傘を導入しますが、陸軍はこの二つの事故があったにもかかわらず、ようやく翌年に導入しています。
写真上 「大元帥陛下諸兵御親閲の御英姿」      東京朝日新聞 1928.12.3
写真中 「横浜港外夜の盛観」            東京朝日新聞 1928.12.5
写真下 「飛行機はこの惨状」            東京朝日新聞 1928.8.23


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0