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シニア 熱血宣言 №11 [雑木林の四季]

大震災・高齢者に何ができたか

                                      映像作家  石神 淳
        
   東日本大震災発生日のニュース速報、三陸海岸を襲った大津波の実況中継を目の当たりにして息をのんだ。時として、ハイビジョン高精細度の映像は無慈悲だ。堤防を乗り越え、大きな遊覧船や漁船を木の葉のように巻き込みながら集落になだれ込む濁流。この世の出来事とは思えない地獄絵を液晶の大画面が描き出す。
   宮城県気仙沼市の被災状況が映し出されたのは、その後暫く経ってからだ。見覚えのある漁港の地形と魚市場の看板、そして高台にあったホテル。夜になると炎が街をなめつくしていた。リアス式海岸と松原の美しい岩井崎に、一昨年秋に訪れた民宿「崎野屋」がある。老夫婦と息子夫婦に子供たちは無事だろうか。
   「昭和35年チリ地震津波の時は、敷地の前の坂道にある宿の看板近くまで波が押し寄せてきたんですよ」と、はじめて会った時まだ働き盛りだった主の話を思い出す。
   一昨年の再会まで、30年の時が流れていた。チリ地震津波の時は、友人の岩月氏が、東京の所沢から、二人乗りの小さなヘリコプター・ベルGⅡで大船渡市へ飛び、フィルムで撮影した津波の被害状況を2日後に放送した。テレビが、まだ白黒14インチの時代だった。
   あれから51年経った現代は、ハイビジョンの大型画面で映し出された、災害地の惨状と被災者の姿を、SNGを使った衛星中継が、ほぼリアルタイムで否応なしに放送してしまう。老兵の立場としては、これでよいのかと、報道のあり方に戸惑ってしまう。
   地震の翌日、いつ届くかわからない見舞いの手紙を崎野屋さん宛に出す。主の名前も聞いていなかった。
   崎野屋さんから電話が来たのは、まだ余震が続く4月に入ってからのことだ。
    「お見舞いの手紙ありがとう。今回も津波の被害を免れました。家族みな元気です」
   海側に隣接する、小さな「琴平神社」が、一家を護ってくれたのだろうか。
    「東京で、何か出来ることがあれば、遠慮なく言ってください」 
    「まだ、電気も水も来ていないが、食い物の備蓄はあります。頑張りますから大丈夫です」と畠山さん。
  この時、崎野屋の主の名前が、畠山正朋さんであることを知る。大地震と津波の発生から3週間。気仙沼湾の喉元にあたり、向かい皺に大島を見る岩井崎は、救災の手が届かず、孤立した状態に置かれていたようだ。美しい松原も津波に流されてしまっただろう。
   後にネットで検索して判明したことだが、津波を免れた崎野屋さんには、近隣の人たち百人余りが逃げ込んできたようだ。
    「やっと道路が復旧して、自衛隊の人が水を運んでくました。まだ避難してきた人たちのお世話しているんですよ。でも、ご心配いりません」
   2度目の電話を、畠山さんから貰ったのが4月12日、ちょうど一月が過ぎていた。想像を絶する被害を目の当たりにして、自らが孤立しながら、民間の避難所として、近隣の人たちの世話は、さぞかし大変なことだったろうと推察できた。いかに民宿業とはいえ、畠山正朋さんの度量に頭がさがる。
   東京では、大地震の翌々日あたりから異変が起こりはじめた。自宅近くの量販店「スーパーバリュー」では、節電した薄暗い店内に買い物客が異常に押し寄せ、食料品が軒並み津波のようにさらっていった。原発事故による放射能の飛散、東京電力の計画停電計画などのニュースの陰にかくれていた、東京湾沿岸地帯の液状化現象による被害なども明らかになり、卑近な被害がやっと伝えられ、政府発表の説明不足も手伝い、不安感を煽り立てていた。このような国家的な非常時、若手の代議士どもは、いったい何処でなにをやっていたのだろうか。
   比較的、家に居た元祖テレビ屋として、こんなにテレビにかじりつき、政府批判に明け暮れたのは、残り少ない人生ではじめてのことだ。
   そう言えば、我が家の瓦の棟も地震で崩れ落ち、一カ月も経つのに、なかなか修理に来て貰えない。瓦職人がみな廃業してしまい、日本瓦も土も無いし、瓦職人も引っ張りだこなのだそうだ。練馬区役所にメールを入れたら、「練馬区は、支援できません。自力でやってください」との冷たい返事だった。災害後、「自助→共助→公助」という言葉を聞いたが、後期高齢者が屋根によじ登るわけにもゆかず、老夫婦で途方に暮れている。それでも、三陸・茨城・千葉の被災者のことを思えば、これきしの事で文句を言っては、申し訳ない。しかし、余震の多さに辟易している。
   「富士山の伏流水を送っていただき、ありがとうございました」
   富士山の伏流水を、やっと復旧したヤマト便で送ったお礼の電話が、翌々日に掛かってきた。ほんとうは、富士吉田の道の駅まで汲みに行こうと思ったら、取水禁止で、買うとしても4月の20日までは手に入らなかった。偶然、4月3日に取水した伏流水の大ボトル2本を入手することが出来、岩井崎の道路が復旧した4月12日に送れたのも、琴平神社さんのご利益だろう。
   「富士山の伏流水を飲んで、みな元気がでました。ありがとう」崎野屋の畠山正朋さんの声には、復興に立ち向かう元気が感じられホットした。
   いま思うに、国家的災害規模の東日本大震災で、バブル崩壊以来、とかくバラバラになりがちだった日本人の心が、確かにガッチリと結びつきはじめた。
   「日本人の善意と、温かい心が地震で目を覚ました」ともいえる。被災地が復興し、人々が震災以前の暮らしを取り戻す日まで、あと何年もかかるだろうが、その間一日たりとも、この大震災の教訓を忘れず、心のスクラムを組んで行きたいものだ。
  後期高齢者にとって、何をもって社会に貢献できるだろうか。それは「小さくも、大きな心」を持ち続けながら、これからの社会を見守るご意見番になることだ。

気仙沼からの手紙 のコピー.jpg気仙沼からの手紙
気仙沼湾の夕暮れ のコピー.jpg気仙沼の夕暮れ

  


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