SSブログ

私の映画人生 №13 [雑木林の四季]

私の映画人生 (その十三)

                                    映画史研究家  坂田純治

  私が早大高等学院に入学した昭和二十三年の受験期は、敗戦後の混乱も手伝って異常な年でした。前年、六・三・三制が敷かれ、旧制中学生は其の侭五年制を全うした者、新制高校に移行して高校三年生を終了した者、陸士、海兵など軍の幹部養成校からの復員学徒等々、受験生のキャリアは様々な様相を呈して居りました。早大学院の採用率は二十三倍で発表され、碌な受験勉強をして居ない私など、受ける前から不安にビビッていたものです。前号でも書いた通り、早大は他校の予科に当たる学院の受験時点で事後の学部を規制する。転科は認めない。そうしないと、難易度の低率な部門に受験生が集中して、将来学部に進級する時点で混乱が起きる。確か、そのような論理からだったように記憶して居ります。私の文学部仏文科志望は予てからの夢でしたから、其処にはなんらの計算も働かず、只管、合格を期して居りました。筆記試験と作文、其れに二次に渡る面接を受けました。面接では、作文の内容の確認。「仏映画界を現地で勉強したい。」との希望を相当突込んで訊かれました。J.デユヴィヴィエ の名こそ挙げましたが、流石に、キマリが悪くて女優のマリーベルの名は出せませんでした。「仏文学で好きな作家は」の問には「A・ジイド」。「作品は?」には「田園交響楽」と「窄き門」など。「尊敬する仏文学者は?」是には困ったが、率直に「東大の辰野隆先生」と答えました。大町時代、郊外の木崎湖畔に於いて「木崎夏期大学」が、戦前から秀れた講師を招いて開講される伝統があり、私は二度参加して多くの薫陶を得ました。(英)中野好夫、(国)西沢実、(仏)辰野隆などの名講義には、どんなに影響を受けたことか。就中、辰野先生の博識とユーモラスな人柄には殊更強く惹かれました。当時、早大には山内義雄等、仏文界の著名教授が数多居りましたが、私の回答に目を円くした試験官たちにその理由を相当に執拗に訪ねられたこことを覚えて居ります。仏・露文などの混成クラスでしたが、相当の猛者揃いで、復員学徒も二人程居ました。
 私など田舎丸出しの純朴な少年でした。入学初日、黒板を背にして夫々に自己紹介が行われました。「俺の親父の名は坂田藤五郎、知っての通り坂田籐十郎から数えて五代目だ。そうなると俺は藤四郎。芝居の世界でトウシ郎は縁起でも無いから、現代風に純治と改めた。将来は演劇か映画の役者を目指す。」というのが私の自己紹介。ナメラレルモノカと随分気負ったモノだ。同級に松竹の御曹司の白井昌夫が居たが、後日、親しくなった時「お前、よくあんなホラが吹けたモンだ」と苦笑されました。級の半数は半信半疑。家柄、専門業の彼には即バレたらしい。他に父君が大本営陸軍報道部長で、後年現代音楽の評論家として名を挙げた秋山邦春。「俺は上野(芸大)へ行くつもりが、こんな処へ来て終った」とホザく作曲家の宇野誠一郎。此の二人には後日、我々の劇団では随分世話になりました。文芸評論家で、自作の小説を書いた秋山駿。そして、当時の仙台の理想的な都市化につとめた名市長岡崎某の甥、岡崎栄生とは即、親しくなって団員増補中の劇団「さつき座」に、後年、集英社で各紙の編集長で名を挙げた岡田朴と二人を勧誘入団させました。時来、岡崎を、私を始め其の名をマトモに呼んだことはありません。聞けば彼の亡くなった生母の名は千代さん。室生犀星バリの(と評された)小説を良くする其の筆名が千代揚。其処から彼自身の希望も有って岡崎ならぬ「千代(センダイ)」が彼の通り名になったのです。生涯の友となりました。
 門を叩いた劇団「さつき座」には二人のリーダー格の先輩が居ました。一人の喜多健一さんは土方与志さんの影響を受け社会主義リアリズム派。謂わば左翼系の思想の人だった。「さつき座」を起こすに当たっては更にシュールリアリズムを標榜、後楽園を使っての「メーデー前夜祭」には率先して赤旗を振って出掛けたものです。対象は後年、NHKのアナウンサーになった南原彦さん。全くの芸術至上主義者で公演の主題もガラリ異なり、二人の主張は、百八十度反対方向を向いていました。思想は兎も角、二人共夫々人間性は頗る付きの人柄の良い人で、ノンポリの私を前述の新入団の二人も、二人のリーダーのいう通り素直に行動していました。
 最初に私と岡田朴の二人が舞台に立ったのは有島武郎の「ども又の死」からでありました。先の二人に次ぐ旧世代に山内雅人(のち、NHK放送劇団二期生。金田一春彦氏らと同調して『美しい日本語』啓蒙運動を起こし朗読塾を創る)の卒業鉸の同窓会の余興に招かれたのです。私の役のリーダー格の花田を中心に、五人の通学生の生態を描いたものだが然し、悲しい哉、女優が居ない。苦労してプロ劇団「泉座」からヒロインのマドンナに丘映子を三顧の礼を以て迎えました。記録を辿るとギャラは五百円と有るから当時の世相、我が劇団の窮状を語って、寧ろ微笑ましい。困った役者は私です。画家仲間が一人一人マドンナに別れを告げる場面があるのですが、リーダー格の私の番になると、私はどうしても彼女の額にキスをすることが出来ない。演出の南原さんが「純ちゃん、どうしたの?」とハッパを掛けてくるのですが、彼女に向かい合っただけで、頭から、腋の下から、ドッと汗が出て来て体が動かず台詞も出て来ません。本番の日には何とかコナしましたが、苦しい修行でした、随分、純情ッポイ話ですが、本当の話です。こんな経験は初めてですが、是では役者の資格は無い、と想いは誠に深刻なモノでした。
 こんな経緯が有って、喜多さんは、日本女子大寮に潜入して女優捜しを開始しました。
 私の学院、劇団活動はこうして始まりました。尚、わが家にとって幸運な事には、父が戦時、戦後の三年間過ごした信州松川を離れて、東京本社に異動することに決まりました。一家はじめての東京生活がやがて始まります。(続く)


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0