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立川市長20年の後に №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

助役として立川発展の夢の実現をめざす一歩を・その3

                                          前立川市長  青木 久

有償処分方式に転換・局面打開
 国は立川基地跡地の再開発を基本計画に従って進めている。1978年(昭和53)4月末、立川基地を南北に結ぶ「南北道路」が開通。
 私は岸中市長に当面する市政の課題を列挙して訴えた。
 国営公園の誘致、立川駅舎の改良計画、中央線の複々線化などの諸問題に同時・並行的に取り組まなければならない。これらのうち、最も対応を急がなければならないのは、跡地利用だ。
 国は基本原則を変更しない。われわれが、有償処分方式に転換しない限り、立川基地跡地問題は前進しない、国と交渉のテーブルに着くことで、払い下げ価格を議論できる。
 岸中市長はうなずいた。
 「市議会にも働きかけて、その線で進もう」
 有償化反対の市民団体、市会議員の動きは活発だ。それを視野に入れながらも、岸中市長は進んだ。
 1978年(昭和53)、暮れも押し迫った23日、立川市議会は、反対派住民が傍聴席を埋めて注視する中、国案を認める請願を採択。さらに市議会は、跡地利用の処理に関する意見書(有償処分方式受け入れ)を可決。有償方式受け入れに転換した市の方針を関係方面に伝えた。
 これに対して、無償方式を主張する市民団体は反発。1979年(昭和54)1月、「立川基地跡地利用市民投票をすすめる会」が、「跡地利用は市民投票で決めて欲しい」とする条例の制定の本請求を市長に提出した。2月1日、立川市議会は、岸中市長は立川基地跡地利用について、有償処分方式を受け入れるとの報告を了承。また跡地利用についての市民投票条例の制定を求める請求を否決した。
 岸中市長の決断により、局面は動き出した。
 払い下げ価格について、関東財務局は適正に処理しなければならないという。われわれは、市の財政の現況と市民感情への配慮を主張する。国は払い下げによって利益を得ようとしているのではない。公正な第三者によって妥当だと認められる価格ならよいと言っているのだ。そこには含みがある。最終的に判定・承認するのは国会だ。だから地元選出の国会議員の活躍に期待できる。この年の12月、国と立川市は、お互いの立場と主張を秤にかけて歩み寄り、「妥当」な最終価格に結着した。

立川駅舎の改良工事始まる
 国鉄は、1977年(昭和52)年暮、立川駅舎改造についての計画を発表していた。私は開発部長として、それが中央線の複々線化の一環であることを力説したが、、地元では、そのように受け止めてはいなかった。
 1979年(昭和54)5月、立川駅舎改良工事の起工式が行われた。国鉄工事局・建設省・東京都などから、立川市は市長はじめ、市議会・商工会議所など関係者が大勢参加した。
 その来賓の中に、建設大臣の代理として道路局長浅井新一郎君がいた。頼りがいのある府立二中の同期生だ。
 「おい青木、俺は挨拶させられるんだが、何を言えばいいんだ」
 「それならぜひ、この駅舎の改良工事が、三鷹・立川間の中央線複々線化計画の第一歩となる記念すべき日だと言ってくれよ」
 「うん、そのことに誤りはない。事実はそうなるよ。でも、俺は建設省の役人だぜ。国鉄の職員とは違う。いいのかい」
 「それはそうだ。ただ『そうなることを確信する』と言えば、筋違いと言われることはないだろう」
 浅井君は笑った。
 「だいぶん、地元で苦労してるようだな。分かったよ。それでいこう」
 挨拶に立った浅井道路局長は、建設省の立場から、総合的な立川広域圏構想の枠組みを述べ、中央線複々線化が実現されることを確信すると結んでくれた。
 友人の一言は効果があった。私のそれまでの発言が、全て公の計画に組み込まれているものだということを理解してもらえた。

山積する課題の経緯
 1979年(昭和54)8月、岸中市長は二期目の市長選に出馬、革新系対立候補を破って再選。
        11月、閣議で立川基地跡地に国営昭和記念公園の藻設置を決定。
 1980年(昭和55)3月、立川駅ターミナルビル株式会社(駅ビル会社)の設立総会開催。
                  3月、国営昭和記念公園の建設工事始まる。
 1981年(昭和56)1月、陸上自衛隊飛行基地の本格的工事始まる(新立川飛行場)
           3月、立川市と立川駅南口区画整理事業を阻止する会との間で10項目の覚え書            きを交わす。反対地権者との和解が成立。事業は前進していく。
              7月、南口区画整理事業により、医療法人川野病院新館を曳き家(ひきや)工法により建物をそっくり移動。工事中も医療業務は平常通り続けられた。
              11月、東京都は「多摩地域都市モノレール基本計画調査」を発表
 1982年(昭和57)3月、陸上自衛隊立川基地の新滑走路の運用開始
                      10月、立川駅ターミナルビル・ウイル(現ルミネ)が開業。初日は延べ25万人が入場。
 1983年(昭和58)10月26日、国営昭和記念公園の一部が完成して開園式。昭和天皇をお迎えした。中曽根首相、鈴木都知事ら700人の来賓が参列。

モノレールに反対の大合唱
 東京都がモノレール構想を打ち出したことに私たちは活気づいた。あの勉強会と報告書に着目した東京都がこれを重点目標としたのだ。
 私は市役所内部で、その意義を述べ立てたが、賛同する声は聞かれない。市の商工会議所や近隣都市の幹部に働きかけたが、多摩を南北に縦断する交通網の設置には、誰もが疑問を投げかける。それに、モノレールを敷設するには、道路の拡幅が必要となることから、資金的にも余裕はないし、住民の同意もえられないだろうという。どこへ行って話しても、反対の声が返ってくる。南口が特に激しい。
 私は、その理由を考えてみた。私には、勉強会で学んだ広域立川圏のイメージが定着している。しかし、私の話し相手は、そんなことに思いを致してはいない。
 私は、立川の役割と多摩との関わりについての基本を語り、南北を結ぶ新たな交通システムが、発展をもたらすのだということを明快に主張し続けなければならないと思った。
 こうした状況の中で、青梅から選出された同期・同窓の国会議員石川要三君は、モノレールの意義を強く主張していた。共に、多摩の発展について志を同じくする友人だ。嬉しかった。

昭和天皇のお人柄にふれて
 爽やかに晴れ渡った1983年(昭和58)10月26日、国営昭和記念公園の開園式典が催された。天皇陛下ご在位50年を記念した公園である。式典には、天皇陛下、総理、衆参両院議長、最高裁長官が出席された。
 武蔵野の景観と植栽を基本に緑と水の潤いを活かし、昭和の時代を偲ぶという構想で造成された。
 天皇陛下は、1933年5月24日、父君大正天皇を祀る多摩陵参拝の帰途、立川飛行場にお見えになり、陸軍機の飛行をご覧になっている。50年ぶりの立川訪問だ。82歳のご高齢にもかかわらず、お元気でご機嫌うるわしかった。
 「みんな、ご苦労だったね」
 陛下は園内の植栽に優しい眼差しを向けられ、造成にあたった関係者の苦労をねぎらわれた。昭和の時代の前半は、国を挙げての戦の日々だった。この公園は立川飛行場が新たに生まれ変わったものだ。
誰しもが陛下と共に生きた昭和の時代を思い起こし、平和な時をすごせる時代の後半を大切にしているのだ。
 陛下は園内を歩まれ、
 「武蔵野の木々が生き生きしているね」
 語りかけるように、ケヤキを眺められる。皇居の中にも武蔵野があるのだろう。中曽根首相は笑みを浮かべて、陛下のおそば近くを歩いていた。いつしか、私たちの緊張もほどけていた。それはお人柄の優しさのせいだ。
 陛下はイチョウ並木をご覧になり、案内役の建設省関東地建局の田中局長に向かって、
 「ギンナンは、イチョウのメスの木になるのです。枝を見てごらん。横に大きく開いているのがメスで、斜め上に枝を持つ木がオスですよ」
 陛下の短い特別講義だった。感激した田中局長は、汗ばみながら何度もうなずいていた。
 公園を訪れた人は約1万8千人。その多くの人が、陛下に手を振り敬愛の挨拶をしていた。
 この日の情景は、今も鮮やかに思い起こす。


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