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戦後立川・中野喜介の軌跡 №26 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

◆第七節 夜の市長と立川短大の設立

                                 立川市教育振興会理事長  中野隆右 

 さて、基地で財をなした人といえば、やはり筆頭人のひとりに中野喜介氏を挙げねばならないだろう。
 第一章では、立川パラダイスの設立に関わったことに触れたが、このキャバレーが短期間の営業で閉鎖されると、次のビジネスに移ることになる。中野氏の本業は、戦前のタクシー営業以来の旅客運送業、それに戦時中から手がけていた鋳造といった実業だが、立川パラダイス以降は公的な性格の強い事業にも手を伸ばすようになっていた。ここでも 『真相』 の記事から引用しょう。
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 そのころパンパンにつぐ敗戦日本の名物、ケイリンが京浜、阪神方面に誕生した。「夜の市長」たるもの、この好餌を見逃すはずはない。中野はさっそく、立川競輪場の建設に手をつけた。その一方、パンパンの市中分散によって空家となったパラダイスの建物を塗りかえて、立川短期大学を設立したのも中野である。教育に手をつけるとは殊勝な、と早合点してはいけない。大学理事長は中野応棟。パンパンの脂粉の香も消えぬ建物を大学にした神経も相当なものだが、気の毒な女たちの血で塗れた手で、理事長の椅子に坐る度胸も大したものである。
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 立川短大が、学校法人立川学園による立川専門学校として設立されたのは、パラダイスが閉鎖された翌年の昭和22年のこと。経済科(一部・二部)の単科の旧制専門学校であった。さらにその翌年には、英文科 一部・二部) を設置。昭和25年には学制改革を受けて立川短期大学(商科・英文科)に改組。
 理事長は中野喜介氏だが、学長には巣鴨経済専門学校(現千葉商科大学)、日本経済専門学校(現亜細亜大学)で教職についていた田郎吉の長男藤吾(わが父)が就任した。
 前記の『真相』の記事と同様な立場から昭和27年7月号から『近代文学』に三回にわたって掲載されたドイツ文学者山下肇氏(当時・東大助教授)の筆になる『立川市民の生活と意見』には、このように記されている。
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 しかも、このさるものは、闇が終止符を打つ潮時をみて、すかさずこの 「パラダイス」を廃止して世評に報い、なんと「パラダイス」跡を「立川短期大学」にきりかえて、立川の最高学府の理事長におさまり、立川文教の入婿となって 「第三国人」 の汚名を抹殺し、立派に日本人になりすましたあたりは、たしかにただものではない。もっともこの短期大学の夜間部には、近ごろ基地労務者や予備隊員たちが雑居して、今後なかなか面白い風景が見られそうだという話である。
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 『真相』 同様、悪意充満の記事だが、最後の夜間部の件は、この土地にそういう教育の需要があったことを示していると言えるだろう。なお、「予備隊員」とは、昭和25年、朝鮮戦争の始まった年に占領軍の意向を受けて設立された警察予備隊の隊員を指す。警察予備隊が自衛隊の前身であることは言うまでもないだろう。「面白い風景」云々は、現在ではピンとこないが、再軍備に反対する立場からの「予備隊員」に対する悪意の所産であろう。

『立川~昭和20年代から30年代』ガイア出版


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