今は昔 奥多摩見聞録 №4 [雑木林の四季]
今は昔 奥多摩見聞録 №4
落花流水 小澤萬里子
日本画家、祖父の川合玉堂(1873~1957)は「ごく若い頃は動物や人物画を好んでいた。」と自分で言っていますが、次第に風景画、特に水のある画を好んで描くようになり、多数の作品がのこされています。
勿論、写生をもとに、という姿勢は変わりません。執拗に写された水の流れの線は、どうしてここまでしなければならないのか?と不思議でもあり、薄気味悪くさえあります。
それら描かれた水の姿を見ると、玉堂が朝まだき、或いは夕闇迫る頃に至るまで、立ちつくして写し続けたことがわかります。
実際、奥多摩の西の山並みに陽が入ろうとする頃、多摩川のほとりに佇んでみますと、水の面が日中と如何に異なるかを感じ取ることが出来ます。
日中は光線が直角に水面に達し、水底の魚影や小石もはっきりと見えますが、朝夕の斜光の頃になると、光は水面に箔が貼られたようにキラキラと跳ね返り、水が、流れゆく線となって川面に現れます。
玉堂が弟子達に、「水を描く時は、早朝か夕方に写生しなさい」と言ったのはこの事です。
玉堂はまた「水の流れは、じっと見ていると3秒毎に同じ線形を辿る」とも言いましたが、その動きまでは捉えきれず、「そうです」と確信をもって答え得る人は少なく、大方は カメラに写った瞬間の、停止した線形を描くのみのようです。
玉堂の15、16歳頃の写生帖を見ても、多くの方々がおっしゃるように、「子供の頃から天才なのね」という事ではなく、画に対する並外れた執念が玉堂のバックボーンだったと思います。
写真は真を写すものではありますが、写生は、生を写す、すなわち、いのちを写すことなのでしょう。水はH2Oという無機質の存在である以上に、音立てて流れる生き物なのだと見て、それを捉えようとしていたのに違いありません。
若い方々に説明するには、一流のスポーツ選手達の精進と重ね合わせると何となくわかっていただけるように思います。野球の川上哲治選手が、「集中できている時には、どんな球でも、止まって見える」。ゴルフのジャック・ニクラウス氏が、「調子のよい時は、ボールに向かって、芝の上にはっきりラインが見える」と言ったように・・・・・・。ひたすら極めようとすることによって開ける心眼なのでしょう。
ここで、大正5年の玉堂の大作、重要文化財、六曲一双金屏風《行く春》のエピソードをお話ししましょう。長瀞風景といわれていますが、写生帖には「寄居にて」とあり、浮かぶ水車船は、故郷の長良川でよく目にした水流を利用した精穀用の水車船です。
この屏風画は、写真などでご存知の方も多いと思いますが、現在は国立近代美術館に納められ、よほど大きな展覧会でなければ見られません。日本の晩春の重く気だるい空気の中に、華やかさと寂しさがあり、しかも静かな人の世の営みも包含されています。
これを描いた時、玉堂43歳。東京の牛込に屋敷も完成し、気力充実した頃です。戦災で焼失したこの家の画室には、六曲一双の屏風がゆっくり広げて描ける長さの壁面があり、当時の玉堂が、さぞたかぶる想いで、この画に取り組んだことだろうと察せられます。
元・高崎タワー美術館館長、細野正信氏の解説には次ぎのように記されています。少々長くなりますが、それをご紹介しますと・・・・・・
◆◆◆以下引用文◆◆◆
「花吹雪と散り敷きる桜花は一陣の風に吹きだまり、長良川でよく見た水車船が、荒川上流の水流に黒いアクセントとなって緑の岸壁を背にしている。水流の波紋は細かい墨線だが、岩には白緑の淡い色で輪郭や皺をほどこしている。リアリズムと装飾感がマッチし、春の季節の移ろいを見事に伝える作である。」
「玉堂前期の代表作を重要文化財に指定する会議が、東京博物館で開かれたが、当時の神奈川県立近代美術館長の土方定一氏が『豆腐みたいな岩だな』とクレームをつけた。困ったのが文化庁の鈴木進さんで、その頃同館絵画室にいた私のところへ『何かうまい反論はないか』と相談に見えた。私はとっさに『あの岩は石質としては結晶岩だから柔らかくていいんですよ』と答えた。事実、私には小学生の頃から何度か遠足で行き、小石を拾ってきて、ろう石のようにアスファルトの道に落書きした記憶があったからである。むしろ、その岩は、眠くなるような晩春の季節感を表していた。」
「そのせいかどうかは分からないが、同作は無事(重要文化財に)指定された(昭和46年6月22日)。ところが後になって、玉堂が『石の味が分かるまで大変です。岩は山骨であり山の権威です。いわば自然の骨髄で、すべての芸術はそこから始まる』といっていることを知って、一瞬《行く春》の岩はあれでよかったのかと反問したが、雲母角閃石緑泥石から成る変成岩は、やはりあれでよかったのである。」(マルカッコ内は筆者注。)
「何よりも昭和9年作の《宿雪》の冷たい固い岩壁を見れば、玉堂のいう石の味の意味がわかるのである。後者はいかにも狩野派的だが、石までが彼にとっては季節感の表象であった。」
◆◆◆以上◆◆◆
細野正信氏の解説をご紹介するのは以上に留めますが、こうした背景をお含みのうえ、じっくりと鑑賞していただければと思います。
また、この《行く春》について昔、亡父(川合修二・玉堂の次男)が私(筆者)に話してくれた事を想い出します。
「おじい様がこの屏風を描いている時、学生の僕に、桜を一つ描いてごらんと言われて描いたのがこれだよ。やっぱり一つだけ下手だよ。」
その後、また屏風を見た時、私は確かこのへん、と探しましたが遂にわかりませんでした。今はそれをつきとめようとするより「この画は後世にのこる。息子と共に画の中に生き続けよう」と願った親心と思っています。
もう一つ、この屏風が戦後のドサクサの中で某新興国の施政者に寄贈されるという噂が玉堂美術館に届いたのは、まさに船積みされる寸前。なんとしても守ろうと急遽大金を用意して買い戻し、その後、近代美術館に納まることができました。という経緯。
玉堂美術館では、この屏風のレプリカと玉堂が制作のために推敲を重ねた下図が、四月一杯展示されています。ご来館いただけたら幸せです。
(筆者は小澤酒造会長夫人・玉堂美術館館長)
おじい様とお父様との創作秘話、感動しつつ拝読しました。
ぜひ実際に玉堂美術館で、屏風のレプリカと下図を拝見したいと
思いました。
by 水野武史 (2010-04-16 09:47)