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我が映画人生 №2 [雑木林の四季]

私の映画人生(その2)

                                   映画研究家  坂田純治

  氷凍のカラフト(現サハリン)は東海岸の国境の町、敷香(シスカ)(現ポロナイスク)に別れを告げたのが、昭和11年の7月の事である。2ヶ月程先に単身赴任していた父を追う様に母と私は、学校の一学期を終えるや否や、西側の珍内(チンナイ)(現ホルムスクの北側)へ移り、其処の小学校に転校した。小、中学校時代の転校歴11回の自慢にもならない自分史の最初の体験である。前回でも記したが此処は東と異なった不凍海岸で、石炭、木材等の資源を北海道や本州へ積み出す港湾の設備も整い活況を呈して居た。尤も真夏でも遊泳は禁止で、元気な若者がツイ泳いでみたくなってルールを破って溺死し、屍体の傍で母親が号泣していたのを目撃した事がある。
 幼いなりに学校でも格別の違和感も無く、豊原(当時のカラフト庁の中心地)(現ユジノサハリンスク)の師範学校を出たばかりの、谷本シズ先生がクラスの担任で、殊の外私には優しくして下さった。転校生への気配りも有ったのだろうが、私は後年あの『二十四の瞳』を観る度、高峰秀子の大石先生と谷本先生のイメージが重なって胸の熱くなる想いに浸ってしまうのだ。
 小学校に入る前から 私はハーモニカを良くした。教壇に立って小学校唱歌を吹いたり、時には児童文学のサワリを度々読まされて独り悦に入っていたものだ。
 町の青年団の人たちが学校の講堂に集まって来る。面白がって煽られてハーモニカを吹く。或る時女子部のお姉さん達に囲まれて、彼女たちから、「坂田クン、『夫の貞操』って知っている?」一年生には苦い質問である。目をパチクリしていると彼女たちはドッと笑い出す。確か吉屋信子原作で映画にもなった評判作であった。その夜家へ帰って母に訊いて見ようと思ったが何となくリスクを感じて止した。訊かないで良かった。寒期の悪天候の日の休校の無印の赤い旗はシスカ時代と同じ。アトは殆どスキーで通学した。
 雪が溶けると校外の山野には高山植物のフレップの葉が色付き、夏期には赤い小さな実が一面を彩り家族ぐるみとか友人同志でお花見ならぬフレップ狩りを楽しんだものだ。東側のシスカの入内には、町の郊外にオタスの森と謂うギリヤーク族がトナカイと共存している群落が在り、良く覗きに行ったものだが、その顔立ちが我々と変わらないのが不思議であった。
 古代アラスカからアリューシャン列島を伝わって渡来した先住民族らしいが、此処チンナイにはそう謂う部落も無く寧ろ朝鮮の人たちが多かった。
 主題から離れてしまったが、筆を戻そう。此処でも活動写真と旅廻りの芝居が唯一の娯楽であったが、母と見て私が相当程度記憶を鮮明にしているのが『母の曲』という映画である。(山本薩夫監督、英百合子、入江たか子、そして原節子共演)一人の女性が女の子を産む。或る事情でその娘を自分から離さなくてはならない。娘は豊かな家庭に育てられて美しく成長して行く。フト垣間見た生みの母は自分の許へ帰して欲しいと願う。育ての母は葛藤、そして娘は? 子供心にもストーリーは理解出来、入江や原の美しさにも憧憬した。
 話は飛ぶが、総和20年8月広島長崎への原爆投下で、瀕死の日本に対して、ソ連は突如戦火を投入して来た。満州は勿論、此処南カラフトもシベリアから間宮海峡をホンのひとまたぎ。北カラフトとは地続き。瞬く間に我が愛する南カラフト、特に西側は蹂躙された。後年聞く処に依ると我が町の電話局の交換手たちは怯む事なく死の間際まで更新を続けて行ったと言う。正しく氷雪の門。谷本先生は如何されたか。級友達は? 私をカラかって笑い転げて居た青年団のお姉さんたちは? 幸か不幸か此の地を6円前に去って居た私は、懐旧の念強く、故郷を想うこと激しく、再び訪れる事のない愛した町の魂の平安なれと祈るばかりである。          (つづく)


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