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昭和の時代と放送 №22 [雑木林の四季]

昭和の時代と放送  №22
天皇報道に燃えたラジオ
                               元昭和女子大学教授 竹山昭子

昭和天皇御大礼放送 ①全国中継放送網の建設計画
 設立したばかりの日本放送協会は、前述のように、日本本土のどこでも鉱石受信機でラジオが聞けるように新局と中継装置を建設せよという逓信大臣からの命令書を受け、すぐさま中継放送網の建設計画案の作成に取りかかり、「全国放送網建設5ケ年計画」をまとめて、1926(大正15)年10月27日に逓信大臣の認可を得た。
  しかし、その後の日本経済の悪化、金融恐慌をきっかけとする不景気の慢性化により、受信契約数は伸び悩み苦しい財政状態となる。そのため建設計画は修正、縮小された。
 この間に、昭和天皇即位の大礼が1928(昭和3)年11月と決まったため、中継線の建設を急ぐ必要に迫られる。1928(昭和3)年1月に最終的に決まった計画は、東京、大阪、名古屋の3局の増力(1キロワットを10キロワットに)と、広島、熊本、仙台、札幌、金沢に新局を設置、京都、福岡に演奏所(スタジオ)の新設、そして、これらを結ぶ中継線を建設するというものであった。(註1)
 しかし、この中継設備の建設には、有線の中継設備に巨額の費用を必要とするため、検討の結果、長距離ケーブルは逓信省の電話回線を借用することとし、1928(昭和3)年3月にようやく基本方針が決定した。この建設・借用の併行案の内容は、東京-名古屋間、名古屋-大阪間、大阪-京都間、及び、関門海底線部分は逓信省の電話ケーブルを借用、名古屋-宇治山田間は公衆電話線を使用することとした。新設は、東京-仙台間、大阪-広島間、広島-福岡間、福岡-熊本間で、工事費全額を日本放送協会が負担し、設計及び工事の執行は逓信省に委託するというものである。札幌は逓信省の無線中継の試験設備を借用し、東京または仙台から無線により受信することとした。(註2)
 こうした計画に基づいて11月5日開通を目標に急ピッチで工事を進めるが、「工事材料の調達に意外の時日を要したので、中継線は各区間共施工最も困難なる夏季より中秋の候に亘り、水田を踏荒して電柱の建設、支線の埋設及架線工事を遂行せざるを得ざることゝなり、関係逓信局当事者の苦痛は一通りでなかったのみでなく、御大典が切迫するので、工事の進捗を図るのに苦心焦慮されたのであった」(註3)と、逓信技師・米澤與三七は報告している。こうした苦労の末、仙台から熊本までの全区間を仮開通ながら期日までに完成させることができた。つまり、全国中継放送網は、国家的イベントである御大礼の放送を目標に工事がなされたのである。
 このような全国放送網完成までの過程をみてくると、経営主体の統一のための3局合同、日本放送協会の設立、新局の設置と全国中継網の建設、いずれも監督官庁である逓信省が強い権限をもって主導していたことが分かる。

全国中継放送の開始
 御大礼放送を目指して工事を急いだ中継網は、目標どおり1928(昭和3)年11月5目に完成、同日午後0時5分から逓信省電務局長畠山敏行は「中継放送とラヂオの效用」と題して、東京中央放送局のスタジオから全国に向けて第一声を放った。(註4)

  本日から日本放送協会の各地の放送局がお互の連絡に依りまして、愈々中継放送を行ふことになったのでありまするが、茲に其初めに当たりまして、一言致しまするのは、私の最も光栄とし、且つ喜びに堪へない次第であります。(中略)針金に依り中継の設備を致すことになりまして、愈々此度 東京、名古屋、大阪、広島、熊本、仙台の6つの放送局のお互いの間で実行出来る運びと相成りまして、本日より開始せらるゝことになったのであります。即ち今後に於きましては、是等の放送局で、或る1箇所から放送致しますると、同時に其他の放送局からも其儘(そのまま)同じことが放送される ことになるのであります。(中略)特に此一大進境が、御大禮に際して開かれましたことは、私共  をして言ひ知れぬ喜びを覚へしむる次第であります。(後略)

 このように、ある1か所から放送すると同時に他の放送局からも同じものが放送される、と全国中継放送の効果を強調し、「ラヂオの效用が一段と其度を高め、国家、国民の為に貢献せられる所、ますます大なるを」期待すると述べた。各局の受信の結果は「良好」で、殊に札幌は東京からの無線中継であったが、これも好成績であったという(『無線と実験』1928〔昭和3〕年12月号)。
 こうして日本放送協会の全国ネットワークは始動した。翌11月6日、天皇・皇后両陛下が京都に旅立たれるため皇居を出発し東京駅に向かわれる模様を放送したのを皮切りに、御大礼の行事を伝える電波が全国に発信されたのである。

註1・日本放送協会編『日本放送史・上』日本放送出版協会 1965(昭和40)年 P168-169 および日本放    送協会編『放送五十年史』日本放送出版協会、1977(昭和52)年 P49
註2・通信技師・米澤與三七「御大典と放送無線電話中継放送施設に就いて」『逓信協会雑誌』大礼記念、   1928(昭和3)年12月号。古賀傳吉「所感」『ラヂオの日本』1929(昭和4)年1月号。前掲書『日本   放送史・上』 P259-261。 「中継放送の実施に就いて」『調査月報』1929(昭和4)年1月号
註3・前掲誌(米澤與三七)
註4・畠山敏行「中継放送とラヂオの效用」『調査月報』1928(昭和3)年12月号
『ラジオの時代・ラジオは茶の間の主役だった』竹山昭子著 世界思想社 2002


 


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