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立川陸軍飛行場と日本・アジア№11 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川陸軍飛行場と日本・アジア  ⑪  176日間世界一周 その3

                            高校教師・近代史研究家  楢崎茂彌
                                 
 「百万ドルもらっても二度とこんな飛行をしようとは思わない」

 イギリスの世界一周機が行方不明となっている間の7月16日、パリを飛び立ったアメリカの世界一周機がロンドンのクロイドン空港に着陸しました。「飛行日誌」によると、3機の米機にはフランス軍機1個大隊が護衛に付き、クロイドン行きの旅客機と写真班を載せた飛行機とともにパリを飛び立っています。クロイドン空港には新聞記者、写真を撮る者、サインをもらいたがる群衆が殺到しました。千島列島で濃霧の中で苦戦するイギリス機とは対照的です。空港にはイギリス機に搭乗するマクラレン少佐の細君も歓迎に参加しました。
 「百万ドルもらっても二度とこんな飛行をしようとは思わない」は、米機の司令官スミス中尉が新聞記者に述べた言葉として、東京朝日新聞(大正13年7月18日)が伝えています。スミス中尉たちは7月12日にトルコのイスタンブールを飛び立ちルーマニアのブカレスト着、翌日はウィーンへ、その翌日パリ着、パリで一日休んで16日にロンドンに飛ぶという過酷な日程をこなした直後でした。軍人がこんなこと言うかなあとも思いますが、アメリカ人らしく率直で好感が持てますよね。もちろん、これで困難が終わったわけではなく、更に北大西洋を飛行しなくてはなりません。英王立飛行クラブの機関誌「フライト」の編集者は、“米機はこの後アラスカから日本に飛ぶのと同様な困難に遭遇するが、イギリス機は北太平洋と北大西洋を越えなければならず、世界一周競争ではアメリカ優位となった”と書き、米機にも英機にも声援を送る言葉で記事を締めくくっています。

 ポルトガル機は大破、アルゼンチン機は世界一周飛行に飛び立つ
 ロンドンで歓迎を受けた3機のアメリカ機は、翌日にはイングランド東海岸のブラフ(Brough)に飛びました。米機はブラフで機体や機材の修理、今後の計画の検討などのために約2週間を費やします。
 この間に世界一周飛行に関する様々な出来事が起こりました。日本時間18日には行方不明になっていたイギリス機がウルップ島で発見され、24日にはペトロパブロスクに到着しています。25日には、ポルトガルの飛行士たちが東京駅に降り立ちました。ポルトガル機は4月2日にリスボンを飛び立ち、世界一周を目指しましたが、インドで機体を大破し、イギリスの好意により別の機体を手に入れましたが、マカオ附近で不時着し再び機体を大破し乗員も負傷したため、計画を断念したのでした。東京朝日新聞はポルトガル機乗員の入京の様子を次のように伝えています。
 “葡萄牙の飛行将校 淋しそうに入京す 世界一周飛行の途中、折角支那まで来て機体大破のため雄姿空しく挫折した気の毒な葡萄牙飛行家ブリト・バイシ大尉とメカニアンのゴヴェーヤ氏とが25日零時十五分東京駅着列車で入京した、ホームには葡萄牙公使夫妻その他二三の在京同国人が出迎えただけでちと寂しく感じられたが、パ大尉もゴ氏も日に焼けた元気な顔で…無論来年事情が許せば出直してもう一度世界一周飛行を決行する覚悟であると語った。”(大正13年7月26日)
 銀行倶楽部での歓迎の晩餐では「われわれは陸軍航空隊所属のものだが、今度の飛行は全く個人的なもので、飛行機も費用も全部われわれ自分持ちである」と語っており(「日本航空史」による)、彼らこそ本当の飛行機野郎かも知れません。日本に船で来て横浜から船で帰るのは悔しかったと思います。
 7月26日には、「ア(ルゼンチン)国では飛行界の開拓者で恰も我徳川中佐の如き地位を占め、ア国では飛行機といえばペドロ・ザンニ、ペドロ・ザンニといえば飛行機と言われる位に持て囃される」(東京朝日新聞・8月20日)ペドロ・ザンニ少佐ペルトラム技師が搭乗するフォッカーの二人乗り450馬力複葉機ブエノスアイレス市号が、世界一周を目指してオランダのアムステルダムを飛び立ちました。アルゼンチン機はパリ、リヨン、ローマと快調に飛び続け、出発20日目の8月14日には早くもラングーンに到着しました。イギリス機が63日かかっているのに比べると凄い勢いです。少佐の企画も、アルゼンチン公使によれば「これは全く個人的の計画であるが、本国では国民後援会というものが組織され国を挙げて壮挙を送り出したもので…」というように、国家や軍によるものではありませんでした。
 
 新橋の芸妓16名、帝国飛行協会後援会に入会
 アルゼンチン機が出発したことを伝える新聞に、芸者衆16名が連名で入会を申し込んだことを伝える記事が載っています。その記事は“斯うした連中にまで空界発展の必要が認められるようになった”という協会幹部のコメントと、帝国航空協会副会長長岡外史将軍の“真に帝国航空界の発展を期待する人々ならば協会は何人をも歓迎する、新橋芸妓十六名の諸君は真面目な気持ちで入会された。航空協会は斯うした軟らかい後援者を必要とする”という言葉を載せています。「軟らかい後援者」とはなかなか言い得て妙ですが、航空に関心が広がっていることを宣伝するには恰好の素材ですよね。帝国航空協会の後身である日本航空協会の本部は新橋駅の直ぐそばにあります。将軍から何かしらの働きかけがあったかも知れませんよね。記事に芸妓の写真がないのが残念です。

アルゼンチン機霞ヶ浦に着水アルゼンチン.jpg
  8月19日に広東に向けてハノイを飛び立とうとしたアルゼンチン機は前夜の豪雨によって地面が軟らかくなっていたために転倒・大破してしましいました。在日アルゼンチン公使は「東京入りは多分今月末頃と予想されたそうであるが、機体が大破したことから飛行継続はどうであろうか」と語っています。しかしザンニ少佐たちは、予備機を取り寄せると、一月後にはベトナムを飛び立ち、10月9日には無事鹿児島に着水しました。ザンニ少佐・ペルトラム技師は商船学校校庭での歓迎式で市長令嬢から竹製文箱を贈られ、参加者一同はスペイン語で万歳を唱え二人を喜ばせたと記事にあります。どうも「ブラヴォー」と叫んだようです。二人は翌日は串本に飛び、10月11日に霞ヶ浦に到着しました。今回も立川でなくて残念!
  二人は12日には上野駅に到着しました。歓迎の様子を朝日新聞は“何しろ航程万里を翔破して愛する祖国の国威を四海に照らそうという故山の勇士を迎える亜国公使はじめ亜国人の喜ぶったらない。英米仏機が飛んで来た時のようなお祭り気分こそ無いが、それだけしっとりと潤いのある歓迎ぶりである”と伝えています(大正13年10月13日)。このあと季節は冬に向かいますから、北太平洋を横断飛行することは困難と判断され、来春の再挙を期すことになり、アルゼンチン機の世界一周は頓挫しました。
 アルゼンチン機が大破したことを伝える8月21日の新聞には「米機、大西洋横断中止」という記事が載っています。米機はどうなったのでしょう。
 今回も立川陸軍飛行場に直接関係はありませんでしたが、もう少し「176日間世界一周」にお付き合い下さい。

 写真 霞ヶ浦に着水した「ブエノスアイレス州号」(東京朝日新聞1924年10月12日)
出発時の機体には「CIUDAD DE BUENOS AIRES」と表記されていましたが、到着機には「PROVINCIA  DE BUENOS AIRES」と表記されています。「日本航空史」によると、この予備機はあらかじめ神戸に輸送されていたそうです。 


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