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司馬遼太郎と吉村昭の世界№5 [文芸美術の森]

 司馬遼太郎と吉村昭の 歴史小説についての雑感 5
  歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合4

                                 エッセイスト    和田 宏
  
 
11月になろうかというおかしな時期に異動の辞令が出たのについては事情がある。入社したときに聞かされたが、8人の編集部員を出版部と週刊編集部に4人ずつ配属して、半年たったらそれを入れ替える。つまり出版部では、活字の扱い、紙や印刷についての知識を身に付けさせ、週刊誌編集部では取材の方法、記事の書き方などを覚えさせる。両方経験させておけば、どの編集部に行っても使えるだろう、という社の方針があったのである。

  今聞けば、じつに大胆というか、大ざっぱな方針である。和食と中華の料理法を教えれば西洋料理も何とかなるだろうと行った具合の発想だ。出版界が右肩上がりで成長し、将来にまったく不安のない、おおらかな時代であり、そのなかでも特におおらかな会社であった。

  ちなみにこのころは「文藝春秋新社」といっており、創業者・菊池寛氏の手を離れ、元作家で菊池氏の盟友であった佐佐木茂索氏が社長であった。このおかしな新人訓練法を決めたのは佐佐木氏ということになる。佐佐木氏はこの翌41年に亡くなっている。

  半年たって辞令が出なかったので沙汰やみだろうと思った。1年前に入社した先輩もそういわれていたのに異動がなかったというのだから。この間に、見よう見まねで4冊の単行本を作った。1冊目は山田風太郎さんの本で、この人が仕事で会った最初の作家となった。

  ところが半年に2カ月も遅れて辞令が出た。まわりが抵抗したのだろう。新入社員を半年仕込んで、やっと少しは間に合うようになったと思ったら、入れ替えでまた新しいのが来て仕込まなければならないのだから。

  さて、そういうわけで週刊文春に配属されて、最初の仕事は連載が始まったばかりの司馬さんの『十一番目の志士』の担当であった。『竜馬がゆく』でもうファンになっていたので、お目にかかるのが楽しみであったが、なにせ大阪在住なので機会がなく、電話で声を拝聴するのみであった。

  暮れ近くなってから、初めてお目にかかった。第一印象は妙な顔つきの人だなと思った。大正12年生まれだから、昭和の年数に2を足したのが司馬さんの満年齢である。だから42歳のはずで顔は若々しいのに、髪の毛が真っ白なのである。もちろんそれまでに写真では見ていたのだが、こんなに白いとは思わなかった。しかし後頭部はまだグレイであった。残念なことにあとは何を話したかも憶えていない。

  週刊誌の初年兵などは自由になる時間などない。1年に及ぶ連載担当の期間、3、4度は会ったし、食事にも誘われたのだが、一度もご一緒できなかった。

  当時、東京以外の地に住んでいる作家はたいへんだった。もちろん宅配便もFAXもない。原稿をじかに出版社に郵便で送らないといけないのだから、締め切りが早くなる。司馬さんはこれは生涯通じてのことになるが、いつも原稿は早くくれた。当時一番早く届くといわれた航空便で汐留の日通営業所につく。連絡をもらって毎回受け取りに行くのだ。タクシーに置き忘れでもしたら一巻の終わりである。そのころはコピー機もないからすぐ校正刷りにし、挿絵画家に届ける。

  司馬さんはまだそれだけの余裕をくれたが、ぎりぎりに原稿が入れば電話で絵描きさんに内容を伝えることになる。もっと遅くなると――のち五味康祐さんで経験することになるが――小説を書く前に絵にする場面を作家と相談して絵を描いてもらうことになる。五味さんの場合、先にできた絵と後から書いた小説の場面に食い違いができて、往生したことがあった。

  さて、校正刷りが出ると、すぐに司馬さんにも速達で送っておかねば、次週の原稿が書けない。書く当日、「おおい、校正刷りが届いてへんぞ~」と大阪から電話があったことが、両三度あった。青くなった。雑用に追われて失念したのである。司馬さんはそんなときでも怒らない。「前回の最後の三行を読んでくれんか。それで書けるから」といってくれた……。

  思い出話がついつい長くなった。

  話をもう一度、昭和40年の入社した年に戻す。秋に出版部から週刊誌編集部に異動と書いた。その直前だったか、先輩の女性編集者が、「どう、これ」と装丁の校正刷りを巻きつけた進行中の本を見せてくれた。斬新なデザインで見栄えがする出来であった。
  津村節子『玩具』

  吉村昭さんの夫人である作家の津村さんの、その芥川賞受賞作の単行本であった。私はまだ文学賞のことなどよく知らない。吉村さんが4回も芥川賞の候補になって、いずれも受賞を逃したことなど知らなかった。そして実力がありながらも、不運に付きまとわれ続けていることも……。津村さんはもともと実力があったが、むしろ直木賞の人と思われていた。それが吉村さんの先を越して芥川賞を受賞してしまった。(註1)
「吉村さん、さぞ残念な思いだろうな」
 その装丁を見ながら、周囲からそんな声が上がったのを、私は憶えている。
 次回は吉村さんが歴史小説を書くまでをたどってみる。
   
  註1 芥川龍之介賞も直木三十五賞も文藝春秋が関係している賞で、昭和10年、菊池寛が亡くなった二人の友を記念して設けた。両賞の違いを簡単に記すと、芥川賞は作品が短篇で作者が新人、その作品の出来がよければ受賞にいたるが、直木賞は長篇、短篇を問わない、作者は新人でなくともよい、ただその作品だけで終わりそうな人はダメで、長く書き続けられる人かどうかが諮られる。ともに年2回選考され、発表は2月、8月発売の号。世間の売行きが落ち込む二八月に賞という目玉を設定した菊池寛というひとは、経営者としてもただものではない。
  
  
  
 
  
 


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