第五福竜丸は平和をめざす№2 [アーカイブ]
第五福竜丸の生い立ち
『知の木々舎』編集部・構成
まえがき 以下の記事は、『写真でたどる第五福竜丸』(財団法人第五福竜丸平和協会・2004)、同協会発行の『福竜丸ニュース』掲載の記事を基礎に同協会の了承をえて編集部で構成しました。
第五福竜丸は、最初はカツオ船第七事代丸(ことしろまる)として神奈川県三崎の船主、寺本正市さんが和歌山県の古座造船所に発注し、1947年3月に進水しました。
古座町(合併により05年より串本町)は、本州最南端の港・串本と捕鯨で有名な太地港に挟まれた漁村。昔、古座には古座水軍と呼ばれる「海賊たち」が住んでいました。熊野と呼ばれるこの地域の人々は熊野灘を生活の場とし、造船、航海術にたけていたといいます。 古座造船所は、町を流れる古座川の中洲にあり、戦時中には軍需工場として軍用の運搬船や木造の軍艦「日章丸」などを造っていました。
敗戦後、カツオ船の注文を受け、設計者で船大工の南藤藤夫さんは、漁船建造の経験がないため三重県の熊野川造船所や尾鷲(おわせ)造船所など三か所へ勉強にでかけて、半年掛けて8人の船大工により造られました。 総トン数:140.86t 全長:28.56m 幅:5.9m 馬力:250 速力:5ノット 当時の標準的なカツオ漁船です。
戦後漁業とGHQ(連合軍総司令部) 戦争が終わったとき、日本中が飢餓状態で食料の確保は何にもまして緊急課題でした。動物性たんばく質の確保は魚に頼るほかなく、水産業に大きな期待がかかったのです。しかし戦争中「徴用(ちょうよう)」された漁船は壊滅的な打撃を受けており、造船が急務でした。1945年末に、日本を占領しているGHQより漁船に限って造船が許可されました。このうち木造船は100トン未満であればGHQの許可なしで建造できたのです。 第七事代丸は登録上は99㌧ですが、実際には140㌧。建造に関わった方によると、運輸省の検査官に金品を渡してトン数検査に手心を加えてもらったという裏話も伝わっています。
漁業制限とマグロ漁 敗戦と同時に日本の船舶は、全面的に行動が禁止されました。1945年9月14日、木造船に限り日本沿岸から12カイリ(約22km)以内海域の航行が認められました。GHQ司令官の名前から「マッカーサー・ライン」と呼ばれる制限区域です。 ついで9月27日に制限が広がり(第一次漁区拡張)、沿岸・沖合いでの漁場で操業できるようなります。 翌1946年にも二度の拡張が許可され東経165度北緯24度まで漁区が広がりました。この制限は1952年のサンフランシスコ講和条約発効まで続きました。 日本以西の海域では、1952年、韓国の李承晩(イスマン)大統領による「李ライン」、朝鮮戦争時にはクラーク連合軍司令官により作戦水城に指定された「クラーク・ライン」、1945年末から中国沿岸の底引き網漁を禁じた「華東ライン」などにより制限が行われました。 「沿岸から沖合いへ、遠洋へ」とのスローガンが叫ばれ、カツオ・マグロ漁に期待がかかった背景には、このような国際情勢があったのです。さらに漁の季節が限定される沿岸カツオ漁に比べ、回遊魚を追って周年操業でき、缶詰や冷凍加工などで市場の見込める遠洋マグロ漁は花形だったともいえます。 第七事代丸がマグロ専用船に改造されたのはこのような時期でした。
イベントなどの問い合わせ 東京都立第5福竜丸展示館
東京都江東区夢の島 夢の島公園内
TEL03-3531-8494 FAX03-3521-2900
E-mail:fukuryuumaru@msa.biglobe/ne.jp
2009-06-13 21:25
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第五福竜丸のことは前からよく知っていて、古座町の古座川の中洲の造船所で建造されたことや、ビキニ環礁の水爆実験で死の灰をあびて被爆した船員が死亡したり焼津協立病院で治療を受けたこと、また江東区の夢の島公園の展示も見に行きました。ただ亡くなった最後の船大工の西田繁三さん(88)が、第五福竜丸を建造した時の道具を町に寄贈したことや設計した方が南藤藤夫という方とは知りませんでした。
そこでもしお分かりなら西田さんを初めその当時の船大工さん達8名のお名前が分かればお教えいただけませんでしょうか。
by uma (2011-07-14 13:47)