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妖精の系譜 №73 [文芸美術の森]

あとがき 二十世紀未に生きる妖精 1

        妖精美術館館長  井村君江

 毎年夏になると、コーンウォールでは恒例のカー二ヴァルが催される。今年は八月二十二日、マウント湾(ベイ)の海ぞいの町マーズルー ―ニューリン ―ペンザンス ―マラザイアンのコースで、二十近い山車がバンド演奏やバトンガールを先頭にねり歩き、町の広場に来ると歌い踊り、沿道や戸口に立つ見物人たちから筒や箱に献金を集め歩いた。夏休みの子供たちを中心に、町の人々がそれぞれのテーマで車の上に背景のセットを組み、「白雪姫と七人の小人」「ピーター・パンと海賊の戦い」「小人の靴屋」「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家」「ヘンリー八世と6人の妻」など趣向をこらし、登場大物の衣慧をつけ、賞を競うのである。わが家のあるマラサイアンの町の出し物は、ユル・プリンナーに似ている、パブ「ゴドルフィン・アームズ」主人の扮する王様と、美しいドレスで見違えたパン店「オーヴン・ドアー」の娘さんがコンビを組んだ「王さまと私」であった。賞は黄白いすユールのドしスてに金の冠を着けた美しい女王のまわりに、さまざ差可愛らしい花の精たちが踊るニューリンの「妖精の女王」が獲得した。
 このカー二ヴァルから一週間のち、ワイト島のべンブリッジにあるラスキン・ギャラリーを訪れるため、ライドの町に船で着いた。避暑の客たちで賑わう港町には、万国旗がひるがえりバグパイプの曲が流れ、やはりカーニヴァルの一行かシュロの樹の下を華やかに撮っていった。またまた「妖精の至」「花の妖精」「七人の小人たち」などのファンタステイックな山車の行列続き、フェアリーランドに来たような錯覚さえおぼえた。そしてこれが現代の妖精のなれの果てか――ーと思ったのである。考え方によっては、こうした形で妖精がイギリスにはまだ現代に生き続けている――と言えるのかも知れない。カーニヴァルという祝祭が、人々の現実感覚をずれさせると、古代や祖先の土地への吸収が湧き、幼い日々へ心は帰り、そこから妖精たちが懐しい心とともに復活してくるかも知れないのである。
 冬がきてクリスマスの季節になると、妖精はまた人々の間に現われてくる。もちろんキりスト教の祭に登場てきるわけはないが、冬休みの子供たちが楽しみにする「クリスマス・パントマィム」の主役として、舞台で活躍するのである。パントマイムといっても、日本で知られているマルセル・マルソーなどの無言劇ではなく、歌と踊りをふんだんに盛り込んだミュージカルに近い舞台である。もともとパントマイムは、一七一七年ごろローマを経てロンドンに入ってきた「ハレルキナード」という滑稽劇から来ている。ピエロ的な道化師ハレレルキンが口上を述べたり狂言廻しの役をしたりして、馬鹿な王さまに賢い召使いとか、男装の麗人や男性や男性の乳母など性を入れ替えて演じたたり、社会的地位や世の中の秩序をあべこべにしたりすることから起る壷劇である。パントマイムになると必ず妖精が登場し、薄い、ヴェールのようなファンシ・ドレスを着て背中に羽根をつけ、金の冠をかぶった美しい妖精の代母が、手に持った魔法の桂を一振りすると、すぐさまこの世とあの世が通じたり、不可能なことが実現したり、あべこべが元通りになってめでたしとなり、子供たちの柏手が湧くのである。ケンブリッジのヒル・マーケットにあるアート・シエターで、クリスマスになるといつも息子と一緒に『アラジンと「魔法ランプ』や『ピーター・パン』、『マザー・グース』などを楽しんだが、どの劇でも妖精たちは劇の中で重要な役割を演じており、子供たちの夢と想像力を舞台の上からかき立てていた。この妖精の名付け親もまた、現代における妖精の生き残りの姿なのてあろう。今でも人々に求められているカー二ヴァルの祭りの妖精とパントマイムの妖精――だが形骸だけとし一は言い切れない意味、イギリスの人々の底流にある共同幻想のようなものを、そこに垣間見る思いがするのである。
 カー二ヴァルが終わって、行きつけのパブ「カティー・サーク」て友人たちと杯をあげた。カティ・サークは三本マストの帆船てあるクリッパーの名前てあるが、スコットランドの民間伝承の話「シャンターのタム」(ロバート・バーンズが詩にしている)に登場する魔女が着ていたペティコートのはし切れである。マストにはためく帆の布に、魔女のマジックの風を吹き込みたいという願いを入れた名かもしれない。パブの室内は船のロープやネット、円い船の舵が飾ってあるので、キャビンにいるようである。

『妖精の系譜』 新書館


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