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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №127 [文芸美術の森]

         明治開化の浮世絵師 小林清親
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一
               第10回 
       ≪「東京名所図」シリーズから:夜の光景≫

 前回に続き、小林清親の「東京名所図」シリーズの中から「夜の光景」を描いた作品を紹介します。

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 これは、小林清親が明治12年(32歳)に制作した「今戸有明楼之景」
 ここに描かれている建物は、今戸橋のすぐそばにあった高級料亭「有明楼」。
今戸橋は、隅田川から山谷堀に入るところに架けられた橋。山谷堀は、吉原遊郭に通じる水路で、猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれた小舟を雇って吉原に行く客がよく利用した。堀沿いの道を歩いて吉原へ行くよりも、舟で行く方が「粋」(いき)とされました。その後、山谷堀は埋め立てられ、今は無い。
 江戸時代の江戸の町は、縦横に水路が張り巡らされた「水の都」。幕末の開国後に来日した外国人は「ヴェネツィアにも匹敵する美しい水の都」と感嘆の言葉を書き残しています。しかし、今の東京にはその面影は無い。下図の「江戸切絵図」を参照してください。
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 清親の絵に戻ろう。

 高級料亭「有明楼」の窓の明かりといくつもの人影が宴席の賑わいを暗示している。
 玄関の横の暗がりには、客を待つ人力車と車夫の姿が。土手には、隅田川を眺める母子のシルエットも。
 厚い雲が垂れ込める空には、雲間から洩れる月明かりが見えている。幾重にも色を重ね合わせて、陰影に富んだ夜空の表現が味わい深い。当時の浮世絵版画には見られない西洋画風の表現であり、これもまた、彫師泣かせ、摺師泣かせの画面だったことでしょう。

 同じ「今戸橋」を描いた作品がもう一点あります。
 小林清親が明治10年(30歳)に描いた「今戸橋茶亭の月夜」(下図)です。

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 山谷堀に架かる「今戸橋」の上には、満月が輝いている。この絵の光源も、月光と料亭の灯りです。水面に反射した光のゆらめきは、繊細にして美しい。
 今戸橋の左に見える建物が、今見た料亭「有明楼」。右側に見えるのが料亭「竹屋」。

 よく見ると、橋の上には二人の男女とおぼしき人影が・・・

 この絵を見ると、永井荷風の小説『すみだ川』(明治42年)の主人公の若者・長吉が、芸者となった幼馴染のお糸と再会する場面が思い浮かぶ。
129-4.jpg 永井荷風(1879~1959)は、小林清親(1847~1915)の「東京名所図」をこよなく愛好する小説家で、自身も清親の絵を所蔵していました。
 既に紹介したように、荷風が過ぎ去った江戸への哀惜の念を込めて綴った東京散策記『日和下駄』には、清親の風景版画への賞讃の言葉を書いています。
 小説『すみだ川』の次の一節などは、清親のこの絵から発想したのかも知れません。

 「見る見るうち満月が木立を離れるに従い、川岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に濡れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、いち早く月の光を受けて蒼く輝き出した。
 たちまち長吉は、自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。」
                     (永井荷風『すみだ川』明治42年)

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 明治初期の今戸橋界隈を写した写真があります。(上図)
 その後、山谷堀は埋め立てられ、今戸橋も有明楼も今は無い。私たちは、小林清親の絵によって、江戸から明治初期まで存在した今戸橋の風景をしのぶのみ。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズから、「夜の風景画」を鑑賞します。
(次号に続く)
 

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