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妖精の系譜 №65 [文芸美術の森]

第四章 フォークロアと妖精 5
 
       妖精美術館館長  井村君江

ドゥルイドの霊魂観と転生思想

 アイルランド農民たちの間で土の神や豊穣の神と同一視され、ひと鉢の新鮮なミルクを捧げられていたフェアリーたちが、キリスト教が入っても異端邪教の神々として排斥されたイギリス本土のように、斥けられなかったのはなぜであろうか。紀元四三二年にキリスト教布教のためにアイルランドの地に渡って来たのは、聖パトリックであった。実はこの土地に布教に来る以前、聖者は十六歳の時にミルチョという金持ちに奴隷として買われ、アントリム地方のスレミッシュで六年の間、草を刈ったり羊を迫ったりしながら農民と共に暮らし、虐げられた貧しい人々の心の支えともなっていた土着信仰を、身をもって知っていたのである。聖者は結局、厳しい奴隷生活に耐えられず、アイルランドを脱出して故郷のダンパートンに逃げ帰り、修行ののち再びキリスト教布教のため、アイルランドに来るわけなのだが、こうした実際の経験を持つ聖パトリックが、アイルランドのキリスト教布教者であったことが、民間信仰の対象としてのフェアリーたちに幸いしたということが
できよう。
 次に来た布教者聖コラムキルは、土着信仰を認めながらも、それらを積極的にキリスト教の教義と結びつけながら移行を図った。

 わがドゥルイドはキリストなり、神の子なり、
 キリスト、マリアが子なり、大法王なり、
 父なり、子なり、聖霊なり。

 聖コラムキルは前述のように、ドゥルイドとキリストを重ね、アダムをケルトの祖先とし、またノアの娘セゼールを洪水四十日前にアイルランドに上陸した唯一にして最初の女性とすることによって、「創世紀」とアイルランド最古の種族パーソロンの伝説や人物を連関させていったのである。このようにいささか強引な方法であるが、実際においては緩慢な移行措置がとられてゆき、従って土着信仰の神々は、邪教の悪の神としての汚名を免れたわけである。
 それまでにケルト民族が、先史時代から持っていた土着の信仰は、ドゥルイド教であった。ジュリアス・シーザーがこの古代信仰について書いた記録が残っているが、その中で彼は「ドゥルイドたちは、霊魂は滅びず、一つの体から他の体へと移っていくことを信じている」と言っている。
 これはすなわち、ドゥルイドたちが「霊魂不滅の思想」と、生命は「転生」し再生していくという考えを持っていたことを示していよう。彼らの信仰は太陽崇拝であり\占星術を重んじ、自然は霊的な力を持つという汎神論であった。自然すなわち太陽・星など天体の軌道の上の運行、四季の移ろい、そうした悠久の円環の動きを崇拝し、すべての霊はこの軌道と同じサイクルを辿るとドゥルイドたちは信じていたのである。こうした霊魂不滅・転生思想が、今日までケルト民族の根元に流れており、彼らの死生観や自然観を形成しているわけである。
 ケルト民族たちは死というものを終わりとは見ず、もう三の生への入口とし、また死は永い生の中心であるとする。従って人間の生命と自然や動植物の生命には、密接な関係があり、さらに眼に見えぬ力が生命のすべてを支配し、動かしているという考えが生まれてくる。われわれが死んだと見なす魂も、それは次の転生を待つ間の休息状態にあるのだと考えた。
 アイルランドのニューグレンジに現在残っている先史時代の古墳の石壁の両側に、無数に彫りつけられている蜘蛛の巣のような円型が、単なる模様ではなく、霊魂が動いて休息から再生の道を辿るよう、絶えず促すための印という説も肯けてくる。
 神話には神々が英雄に生まれ変わり、また人間が神や英雄に転生する話が多く見られるが、生前自分は何であったか、その再生の過程をみな記憶しており、それを語れる英雄もいる。例えば女神のキャリドゥエンが生んだタリエシンは、前世では他の人物ギオン・バッハであったが、その成生の過程でたくさんの動物や植物に転生しており、兎-犬-魚-獺(かわうそ)-鷹-麦となり、最後には鶏になった女神に飲み込まれ、子供としてその体内に宿ったのち生まれたと言う。また、アイルランド最古の詩人アマーギンは、アイルランドの土を初めて踏んだ喜びを次のように歌っている。

  わたしは海原を吹く風だ
  わたしは大洋の大波だ
  わたしは海の潮騒だ
  わたしは七度闘いに出た牛だ
  わたしは岩にとまるはげ鷹だ
  わたしは太陽の涙だ
  わたしは美しい植物だ
  わたしは勇敢な野性の猪だ
  わたしは水の中の鮭だ
  わたしは草原の湖だ
  わたしは学問の言葉だ
  わたしは闘いの鎗の先だ
  わたしは人間の頭脳に思想の火を創造し、あるいは作る神なのだ。
  山の頂の集会に火をともすのは誰なのか?
   〔ここに説明を加えれば ― わたしをのぞきいったい誰が、質問のひとつひとつを
    明らかにしようか?〕
  月の年齢を知っているのは誰か?
   〔説明を加えれば ― わたしをのぞきいったい誰が、月の年齢を知ろうか?〕
  太陽が行って休むところを誰が知っているか?
   〔詩人をのぞき誰がいったい知っていようかと、説明を加えよう〕

 この詩は単なる生命の転生を歌っているのみならず、霊魂というものが地上の一存在である詩人の体を脱け、万象の中に遍在し動いており、詩人の心がそれと共に飛翔する躍動感をうたっているものと見られよう。
 生命が霊となって転生していくという考え方は、仏教の輪廻思想に類似しているようにみえるが、仏教においては因果応報の考え方がそこにあり、在世の善悪が前世の因縁によって決まる。例えば畜生道に落ちた霊魂は、再び人間には転生できないとされている。またキリスト教にも復活、再生という考え方があるが、これはすべての人々に当てはめられるものではない。再生の思想は古代から各民族が持っており、例えばギリシャのディオニソスの再生やピタゴラスの甦りの思想、あるいはエジプトのオシリスの再生神話やフェニックスの考え方などがあげられようが、そうしたものとはまたケルトの場合、異なっている。強いてあげれば、ヘラクレイトスの唱えた「万物流転説」(Panlarui)に近く、また古代東洋のバラモン思想、すなわち「神は大霊にして自然の総体を生かすものなり」という考え方に似通うところがあると思う。
 ケルトの人々の考えでは、人間・自然・生物等、森羅万象に生命と活動を与える遍在的な霊の存在があると信じ、その霊が不滅であり永遠に活動を続けるとしたのである。従って霊魂不滅といっても個人の霊魂は意味せず、エヴァンス・ウエンツの言うように、個物を超越した大霊の不滅を信じているのである。さらに彼の仮説によれば、各個人の無意識の世界というものと対蹠的なところに想定された窮極の単位の状態にある霊魂の集合体の存在があるはずだとし、これをケルトの人々の考える万物再生の思想の源であるとしている。
 自然や人間を共通に貫いて、眼に見えぬ大霊が存在するとすれば、人間の生活のすべては不可視の力によって支配されていることになろう。そしてこの大霊は、永劫に巡り動き生命を転生させていくのである。従って現世は単なる唯物的世界ではなく、永遠無窮の霊の顕現する世界となり、ギリシャの地歴史学者ストラボが「古代のケルト人は現世を永遠なるものと信じた」と言っている言葉は領けよう。こうした考えによれば、「この世は暫時の滅ぶべき世界」で「異界は永遠の不死の国」とする区別は必要なく、いずれも大霊の顕現した一つ一つの相に他ならず、そこには可視か不可視かの区別があるだけとなる。いみじくもウエンツは「アイルランドには二つの種族がある ― 一つはわれわれがケルトと呼ぶ(目に見える種族)と、もう一つは妖精と呼ぶ(目に見えない種族)である」と言い、今日でもこの二つの種族は互いに往き来していると言っている。この目に見えない種族は、古代のトウアハ・ア・ダナーンであり、数々の祖霊であり、土の神や豊作の神であり、プーカやバンシー、レプラホーンやクルラホーンなどさまざまな姿のフェアリーたちであり、それらが現在生きている人々の生活や行動に、深い関わりを持っているのである。こうした考えから言えば、神話の神々、伝説の英雄たち、民間伝承の妖精たち、すぐれた祖先の霊たちの憩いの国である異界、常若の国(テイル・ナ・ログ)は、この現世と同次元に、この世と隣接し直結して存在していても、なんら不思議はないのである。
 こうしたケルトの異界をその根源から辿ってみると、常若の国や妖精の丘の考え方、ひいてはそこからさまざまに現われてきている異界観、フェアリーランドの考え方は、単に絵空事の空想の産物といったものではなく、民族の血の中に太古から流れている生命観、死生観、自然観に根ざしたものであり、そこからケルト特有の想像力によって創りあげられていった楽園であることがわかってこよう。

『妖精の系譜』 新書館



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