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妖精の系譜 №64 [文芸美術の森]

第四章 フォークロアと妖精 4
 
       妖精美術館館長  井村君江

異界を訪れた神々と英雄と人間 

     
 海の彼方の常若の国や、波の下そして地下に広がるフェアリーランドまでの道や、その国の情景、そこにある城・宮殿・広間など住居の有様はどのようなものであろうか。異界に行って帰った人々の話が、神話・英雄伝説・民話の中にあるが、そのうちの特色あるものを幾つか見てみよう。総じてそうした異界へ行った人々は、日本に伝わる「浦島太郎」伝説に似て、竜宮でのような楽しい時を過ごしたのち故郷に戻ってみると、一年と思ったところが百年の月日が経っており、玉手箱を開けるとたちまち年老いてしまうように、この世の土に足が触れたとたん、現世の時間の重みに捉えられてしまう。常若の国(テイル・ナ・ノグ)の王の娘、金髪のニアヴに連れ去られたオシーンは妖精の女王の白馬で海を越えたが、帰ってきて馬から降り地上に触れたために老人になってしまう。海神の国エヴァイン(女人の島)に行ったブランはこのタブーを守ったので、現世の肉親のところに一度戻って来ても無事に再び常若の国に帰っていく。ク・ホリンやブランは現世の人に異界の消息を伝えることになるが、フィアクラは父親にリバンの娘と暮らした楽土を、「雨のかわりに酒が降り、美しい音楽と美食と恋のある島」と言っている。
 フェバルの息子ブランの航海の話は、十二世紀の古文献にある。プランはある日、丘陵を歩いていると心地よい音楽に誘われてまどろみ、覚めてみると白いりんごの花の咲く銀の枝が手にある。城に帰ると眼の前に忽然と美しい女性が現われ、エヴァインという楽土の様子を歌い誘う。「冬もなく、乏しさもなく、悲しみもない所、海の神マナナーンの金の馬が岸辺を駆けめぐり、さまざまな遊びやゲームが飽くことなく続けられている所」というのである。ブランが仲間たちと船でエヴァインに着いてみると、そこは色どり豊かな女人の島であった。楽しく時を過ごし、故郷が恋しくなった仲間と共にアイルランドに帰って行くが、ブランは妖精の注意を守り、故郷のこの世の土地には触れず、異界の話を人々に語ったのち、いずこともなく去って行き、仲間の者は船から降り岸辺に足を着けたとたん、塵と化して崩れ消えてしまう。
 ブランはエヴァインまで海上を船で西へ行ったが、エルクドゥーンの詩人トマスの場合はオシーンと同じように、妖精の女王のミルクのような白い馬で西の海まで走り、そこからペガサスのように空中高く駆け上がると、常若の国まで風のように休みなく走って行くことになる。

  四十日の長さ日夜を
  膝にかかる赤い血を踏み渡り、
  太陽も月かげも見ることなく
  ただ海原のとどろきばかり。
  ああ、二人は豊取りひたすら進み、
  緑なす草原にたどり着いた。
  「降りなさい、降りなさい、軽やかな方、
  わたしに果物(りんご)を取らせてください。」

 この世から異界への道程は、早馬で休みなく駆けて四十日かかり、太陽や月の光がない海上の道になっている。トマスは血の中を走っていくが、それは「地上で流された血は、全部泉となって再びフェアリーランドに湧き出すからである」とプリッグズは説明している。血の奔流を渡ると、妖精の国への道は細く曲りくねり、着いた所は緑の草原でりんごの実がなっており、そのりんごを食べると、トマスは真実しか語れなくなる。
 このトマスの辿った道や楽土の情景の箇所は、伝承物語の描写のつねとして簡単で飾りのない短いものであるが、共通したパターンが見られる。すなわち、細い道――太陽や月のない薄暗さ――水や酒の流れを渡る――緑の草原が広がる――花や果物の実る国、というものである。プリッグズは「楽しい果樹園の国」と描写し、ルイス・スペンスは「饗宴と踊りと唄と狩と愛の喜びのある国」「土地は曲りくねった谷間、きらめく流れ、緑の草原の常夏であり、人々は死もなく老いもなく争いもない饗宴と幸福の国」とオシーンの行った常若の国を書いており、またコンラの行った国を「蜂蜜酒とぶどう酒が流れ、さまざまな美しい歌声があふれる不思議の国。雪のように白い肌の人々が髪に桜草を挿し愛し合う」と書き「樹々がおい繁る曲りくねった小路を下へ下へ行き、水晶のように澄んだ急流を渡ると、小鳥たちが唄い、色とりどりの花が咲き乱れ、さまざまな果物が実る美し い庭園に着く」とゼノア村のチェリーが訪れた妖精の国を描いている。

 地下のフェアリーランドの通路もまた細く長い。中世の韻文ロマンスに歌われている、盗まれた王妃を捜しにフェアリ1の国へ行ったオルフェオ王は、丘の中腹の岩の裂け目から長い曲りくねった地下の洞穴を三マイル入っていくし、エルフ王にさらわれた妹を取り戻しに丘の扉から入っていくチャイルド・ローランドも、長い通路を通っていく。「その通路の空気は五月の夕方の空気のように柔らかであった」と描写されている。ヘルラ王はドワーフの結婚式に招かれ、崖の洞穴から宮殿への道を辿っていく。

 彼らは非常に高い崖の洞穴に入って行き、暗がりの中を長いこと進んで行った。そこは太陽や月ではなしに、たくさんの松明で明るく照らされていた。一同は素晴しい邸宅であるドワーフの宮殿に着いた。

 興味深いことは、暗い長い通路は、松明か火が燃えて昼のように明るいか、天井から下げられた大きなルビーや紅玉や柘楷石の塊から流れ出る光がいっぱいに溢れていることである。十七世紀のパースシャーの牧師で、妖精に関するもっとも古い信頼のおける記録を残したロバート・カークは著書『エルフ、フォーン、妖精の知られざる国』の中で、「妖精の棲み家は燃料もないのに燃え続ける松明の光でいつも昼のように明るいものだ」と書いてある。
 その細い通路を抜けると(石器時代の古墳の長く細く暗い通路が思い出されてくる)、急に緑の草頂が開ける(霊魂が休んだ後、再生する場所として古墳の中央にある広い部屋の広がりが思い出される)。オルフェオ王が行った妖精の国は、通路を抜けると「地形は平らで緑、夏の日のように明るく太陽が照っていた」と描かれている。王はそこに美しい城を兄いだす。ガラスの塔、水晶の銃眼、そして尖塔は金とさまざまな宝石で飾られ、あたりに光を投げかけている。多くの物語で見られるこうした地下のフェアリーランドにある城や宮殿、邸宅、広間などは、さまざまな宝石や鉱物で豪華に美しく飾られている。「金と銀の寺院と宮殿、金と銀の魚が湖に泳ぎ、ガラスの柱が極彩色に輝くアーチを支えている」(アン・ジェフリーズの話)、「あたりをくまなく照らす巨大な紅玉石に照らし出された宮殿の壁は水晶、正面は黒曜石、そして珊瑚やルビーで飾られていた」(ウオーリックのガイの話)― というように、金銀珊瑚綾錦といったさまざまな豪華な宝石や金属による装飾は、この国が地下に広がっているという位置から、さまざまな鉱物と関係させられて作りあげられたと思われる。さらには地上の領主や金持ちの豪著な建物や生活を、地下に投影させ、農民たちの地上で果たせぬ夢を土の中に美しく実現させたものとも見られるかも知れない。
 海の彼方と地下との二つの楽園の描写をいくつか見たわけであるが、総じて前者は牧歌的な感じが強く、後者は豪華な美しさに富んでいるように見える。それは海の彼方の楽土の多くが、神々や英雄たちの大らかな古代の神話世界に属しているが、一方、丘の洞窟から入る楽園は、身近にあるところから、多くの人々の自由な豊かな空想によって粉飾がほどこされたともいえるかも知れない。こうした考えを押し進めていくと、アルフレッド・ナットが言う「地下楽園」(hollow hill or fairy mound)の考え方は、「海の彼方の楽土」(Oversea Paradise)の思想よりずっと古いものだという説や、両者は同じ程古いとするジンマーの説などが生まれたり、両者を同じ起源から出たとする説や、ルイス・スペンスのように異なった源からこの二種の思想は出てきているというさまざまな説が生まれてくる。また、スコットランドでとくに海の彼方の楽園(Sea-Elysium)は丘の中腹の楽園
(Hollow Hill Paradise)と違って死者の国ではないという区別を強調するために、海の彼方の国を英雄たちの「休息の地」と呼んだりしている。だが、ダグラス・ハイドはケルトの人々は霊魂不滅を信じているため、この世の生を終わった魂が行く所として、海の彼方と地下とを同じように「幸福な異界」(Happy Other World)と考え、そうした思想を豊かにしていったのだと言っている。
 その国へはまだ生きているうちに連れて行かれるか、あるいは西の方角へ海を越えて行くか、丘の中腹の扉や洞穴や岩の裂け目に入って行くか、水の底へ潜って行くか、行き方はいずれにしても、
 この世の人々の行ける所と人々は信じている。確かにこの両楽園は、海を越える、土の下へ入る、という方法は遠うにせよ、この世の苦悩のない常若の楽土に変わりはない。
 ハイドが六十ほどの民話を集めてみたところ、その語り手のうち一人だけが楽園が水の底にあると信じた他は、丘の中に異界があるというのがほとんどで、海の彼方の至福の島に人間は再び生きると考えている者はあまりいなくなっている、と報告している。このことから、異界というものがアイルランドの人々にとって、空想の彼方に描かれた漠然とした理想郷ではなく、自分たちが耕したり、住んだりしている地面の下に存在し、しかも死者の国といった暗いイメージの国ではなく明るいフェアリーランドの国を想像しているということがわかってくる。そして人々が、「土地の霊」と「超自然の生きものたち」と共に身近に暮らしているという考えを持っていることもわかるのである。さらにこのフェアリーランドは、そこへ行く、という空間的隔たりもなく、鳥の声を聞いているうちに瞬間的に訪れられるとも信じられており、この場合には、フェアリーランドは現実と背中合わせか、同時に存在していると考えられているわけである。
 民俗学者ジェイムズ・スティーヴンズの次の言葉は、そうした意味で興味深いものである。「実際私たちはフェアリーランドに出かけて行くのではない。私たちがフェアリーになるのだ。鼓動の一打ちの間に、百年、いや千年を生きるのだ。しかし帰ってきたとき、記憶は素早く曇ってしまうので、実際にフェアリーランドにいるのに、まるで夢を見ていたか幻を見ていたかというように思えるのである」。

『妖精の系譜』 新書館


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