多摩のむかし道と伝説の旅 №119 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№28)
-江戸の庶民の参詣道、都心の大山道を行く-3
原田環爾
三軒茶屋の三叉路から旧大山道上町線(世田谷通り)に入る。まず目青不動に立ち寄ることにする。キャロットタワーを右にやると信号のある丁字路帯になる。そこを右折するとすぐ東急世田谷線の三軒茶屋駅の西側の踏切に出る。踏切を渡り線路沿いを50mも進めば目青不動尊の門前に来る。こじんまりした境内に不動明王を祀る小堂がある。目青不動は通称名で正しくは竹園山教学院最勝寺と称す。寛永寺末の天台宗の寺である。応長元年(1311)、玄応和尚によって江戸城紅葉山付近に創建され、太田道灌による江戸城築城で麹町貝塚に移転、その後移転を繰り返し明治末に現在地に移転したという。本尊の不動明王は明治15年廃寺となった六本木の観行寺の本尊であったものを遷したという。伝承では円仁(慈覚大師)作という。江戸五色不動の1つの目青不動である。ちなみに江戸五色不動とは目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動 を指し、古代中国の万物は木(青)火(赤)土(黄)金(城)水(黒)の5種類の元素からなるという五行説からくる。
元の世田谷通りに戻り進むと程なく環七通りと交差する。交差点を左折して100mも入れば住宅街の中に駒留八幡神社がある。境内には本殿、神楽殿のほか弁財天を祀った厳島神社などがある。鎌倉時代後期、この地の地頭北条左近太郎入道成願は、八幡神を崇敬し、乗った馬が留まったところに社殿を造ろうと誓ったところ、ここで留まったのでこの地に八幡宮を建てた。馬が留まったところから駒留八幡神社と名付けられたという。祭神は応神天皇、天照皇大神である。なお戦国時代には吉良氏との縁が深く、世田谷城主吉良頼泰の妻常盤が死産した子を若宮八幡として祀り、常盤を弁財天として祀ったのが厳島神社である。
更に世田谷通りを進むと世田谷駅交差点の右側に大吉寺と円光院という二寺が隣り合わせで建っている。円光院は真言宗豊山派の寺で正式には大悲山円光院明王寺と称す。天正年間に盛尊の開基になる。豪族吉良家の櫓があった所が、後に吉良氏の祈願寺になったという。
大山道は交差点を左折する。100mも入れば信号のある丁字路帯に来る。ここから右 へ入る街路が世田谷のボロ市で知られる通りだ。ボロ市の時は賑わうのであろうが普段は平凡な静かな街路に過ぎない。ただ「ボロ市名物代官餅」と記した旗だけが目につく。世田谷のボロ市は天正6年(1578)小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に由来するという。掟書によれば楽市は月の一と六の付く日に開かれる六斎市であったが、商業圏の拡大により後には市は年1回12月15日の開催となった。売買される商品も多彩であったという。明治7年からは1月15日にも開かれるようになった。市の名称は正式には「市町」と言うが、明治中期頃から「ボロ市」と通称されるようになった。これは草鞋や野良着を繕うぼろや古着等が商品の大半を占めるようになったからという。
通りの中ほどに来ると沿道左に古風な屋敷塀が見えてくる。世田谷代官屋敷と呼ばれる建屋だ。ここは彦根藩井伊家の世田谷領で代官職を務めた大場氏の屋敷兼代官役所である。大場氏は元は世田谷城主吉良家の家臣であったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めの折、北条方であったため没落し帰農した。しかし寛永10年(1633)井伊家が世田谷領を拝領すると代官に起用され、以後明治4年まで代官職を務めた。屋敷内には代官を務めた大場家の主屋とともに世田谷区立郷土資料館が併設されている。資料館前にはこの近くの弦巻5丁目の三叉路にあった延享3年(1746) 造立の大山道標が移設されている。銘文は正面に「左 さがみ 大山道」、右側面に「右 登戸道」、左側面「世田谷上宿同行五十人」と刻まれている。
ボロ市通りを抜け世田谷通りに復帰する。大山道はそのまま世田谷通りを一旦横断して後、すぐ左直角に折れ交差点「桜小前」で再び世田谷通りを横断しやゝ道幅の狭い街路に入るという面倒な道筋になっている。この街路が本来の世田谷通りでもあるようだ。街路を100mばかり入った所に三差路があり、その角に鈴正畳店という古びた畳屋がある。角地の樹木の下に石碑が一基立っている。碑面には「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に・・・」と刻まれている。すなわち先の郷土資料館の入口に見た道標はここにあった。従ってここが大山道と津久井往還(登戸道)との分岐点ということになる。移転先を示すという親切な配慮には感謝したい。(この項つづく)
2023-12-14 08:32
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