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多摩のむかし道と伝説の旅 №118 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         多摩のむかし道と伝説の旅(№28)
      -江戸の庶民の参詣道、都心の大山道を行く-2
               原田環爾

28-2-1.jpg28-2-2.jpg  更に青山通りを進み草月会館を左にやると程な高橋是清翁記念公園の前に来る。元首相高橋是清の邸宅跡で、緑の樹々で覆われた園内は絶好の散策地になっている。邸宅は残念ながら無いが、銅像が建っている。高橋是清は大正から昭和にかけて首相・蔵相を務めた政治家で、昭和11年2.26事件で凶弾に斃れ83歳で死去した。昭和13年邸宅跡地は東京市に寄贈され、昭和16年公園として開園された。その後昭和50年港区に移管された。邸宅の大半は空襲で焼失したが、母屋は多摩霊園に移築していた関係で難を逃れ、現在は都28-2-3.jpg立小金井公園の江戸東京たてもの園に保存されているという。
 青山一丁目の交差点で外縁東通りをやり過ごすと銀杏並木入口の丁字路帯に来る。現在再開発するかどうかで問題になっている神宮外苑だ。ちなみにこの銀杏並木を進めば絵画館や2020年の東京オリンピックが開催された国立競技場などがある。
銀杏並木入口を後にして更に青山通りを進むと沿道左に梅窓院という寺の前に来る。喧噪な都会の中で竹の囲まれた参道はほっとさせてくれる空間だ。梅窓院は浄土宗の寺で正式には長青山梅窓28-2-4.jpg院寶樹寺と称す。大本山増上寺十二世普光観智国師を開山に、郡上八幡城主青山大蔵少輔幸成を開基として、寛永20年(1643) 青山家下屋敷内に創建したとされる。本尊は阿弥陀如来で聖徳太子作という。当寺所蔵の聖観音菩薩は江戸三十三観音霊場24番、東京三十三観音霊場7番札所で、青山の観音様として知られている。
 外縁西通りを横切ると程なく表参道入口に来る。明治神宮に通じる表参道は言わずと知れた若者に人気の原宿のメインストリートだ。ところで参道入口の北東角地には朱色の柱をした仁王門が28-2-5.jpg見える。善光寺である。本堂は二層からなる荘重なもので、境内には 高野長英の碑がある。善光寺は永禄元年(1558)江戸谷中に創建された浄土宗の寺で山号を南命山と号す。その後徳川家康が長野の善光寺の阿弥陀如来の分身を祀った。元禄16年(1703)火災にあい焼失し、享保12年(1727)この地に再建して移ってきた。江戸時代は信州善光寺本願上人の東京宿院であったという。なお当寺はその後も火災にあい、大正9年に再建したものが現在の伽藍である。
 更に青山通りを進み、国連大学を右にやると五差路「宮益坂上」にくる。青山通りはここから道なりに左方向へ緩やかに下ってゆく道であるが、大山道はやゝ右方向の宮益坂と呼ばれる坂道を下ってゆく。坂道の途中右手に現れる鳥居は御嶽神社の参道入口だ。ビルの谷間の細い参道を上り詰めると、日本狼の狛犬に守られた本堂、不動尊、明治天皇御小休所跡碑がある。宮益御嶽神社は大山街道の最初の休憩所という。社前の坂道は元は富士見坂と称したが、御嶽神社の御利益で28-2-6.jpg益々栄える町へということで宮益坂と改名されたという。室町初期に大和国吉野郡金峰神社を分社し創建したとされる。境内の不動尊は疫病や苦しみを炙り出すご利益があることから「炙り不動」と呼ばれる。また明治3年、明治天皇が駒場野練兵場の観閲に行幸の折、当社で小休止したことから明治天皇御小休所跡碑が立っている。
 宮益坂を下りきりJR山手線のガードをくぐると、そこは渋谷駅前の猛烈な車と人通りの交差点となる。左手には待ち合わせの場所で人気の忠犬ハチ公像がある。大山28-2-7.jpg道はこれより道玄坂に入る。この地を開いた渋谷氏の一族であった大和田道玄からこの名がついたという。ゆったりと左方向へカーブする坂道を上って行くと、道玄坂上で頭上に首都高速3号線が迫ってくる。高速道下の玉川通りに入り交差点「神泉町」で旧山手通りを横断する。程なく右斜め方向に急坂で下る狭い車道が現れる。坂道は上目黒大坂といい、これが大山道の道筋だ。上目黒大坂は大山道の急坂の一つで、落とした団子が坂下まで転がるほどの急坂ということで団子坂とも言われたという。坂28-6.jpg上の休憩所からは大山や丹沢の山並みが見えたという。なお江戸名所図会によれば、里人の噂話として大和田道玄は和田義盛の一族で、和田の乱で敗れた後、その残党がこの地に隠れ住み山賊を業としたため道玄坂と呼ばれるようになったという。その道玄坂を上り詰め大坂の手前にかつて道玄物見の松があり、道玄はその松に登り、往来の人を見下ろし、手下に命じて通行人の身ぐるみを剥がしていたという。
 大坂を下りきると首都高速中央環状線(山手通り)にぶつかる。環状線を渡ると右手丘の上に上目黒氷川神社がある。旧上目黒村の鎮守で、素戔嗚尊を主神に天照大御神、菅原道真を合祀している。天正年間(1573~1592)にこの地の加藤氏により建て28-2-10.jpgられた。くの字に屈曲する急階段の脇参道を避け玉川通り(大山28-2-9.jpg道)沿いの表参道下の鳥居の前に進む。左脇に天保13年(1842)造立の大山道の道標が立っている。表参道もまた急階段だ。車道の拡幅工事以前は緩やかな階段だったという。参道をあがると境内には本堂と目黒富士浅間神社の小社がある。元は上目黒の目切坂上にあった富士塚「元富士」を明治11年に取り壊し移したもので、目黒富士と呼ばれている。
 玉川通りの南側歩道に回り目黒川の大橋を渡ると左斜めに入る街路が現れ28-2-11.jpg28-2-12.jpgる。それが大山道の道筋だ。ここから渋谷区から世田谷区へ移る。街路に入ると一転静かな住宅街に変貌する。程なく池尻稲荷神社の前に来る。参道入口に平成8年に造立された新しい旧大山道の道標が立っている。この参道は昔は表参道であったと思われるが、今は裏参道で玉川通り側の参道が表参道の様である。参道入口にはかつて大山道の旅人の喉を潤した「涸れずの井28-2-13.jpg戸」と称する井戸があることを記す由緒書と、水汲みがてらに奉公人と童が遊ぶ姿を刻んだ像が立っている。当神社は江戸時代の明暦年間(1655~1657)に池尻村と池沢村の産土神として創建された。火伏、子育ての稲荷として霊験あらたかという。当時は大山道のほとりの常光寺の一隅に勧請されていたという。境内の「涸れずの井戸」は如何なる渇水時も涸れることなく湧き出しているといい、山城国伏見の稲荷山に鎮座している薬力明神の神託により病気平癒にご利益ありとして「薬水の井戸」と呼ばれ手水舎の水はこの水の引水が利用されているという。
 街路は再び元の首都高速3号線下の玉川通りに合流する。程なく沿道左手に昭和女子大のキャンバスが現れる。大学の正門前をやり過ごすと前方に車両や人通りがひときわ多い三叉路が目に飛び込む。そこが三軒茶屋だ。江戸時代は太子堂村と言われ、この三叉路に、角屋、田中屋、信楽(後の石橋屋、石橋楼)という三軒の茶屋があったことに由来する。江戸入り28-2-15.jpg28-2-16.jpgする旅人にとっては有りがたい休み処で渡辺崋山や坂本龍馬も利用したという。ここで大山道は二手に分かれ、左方向の高速道下を進む太い車道は玉川通りの続きで新町線、右方向へ進む車道は世田谷通りで上町線だ。旧大山道は上町線になる。ちなみに旧大山道は登戸道(津久井道)でもある。新旧大山道の分岐点には28-2-17.jpg古びた笠付きの大山道標が立っている。三軒茶屋の大山道標で寛延2年(1749)建立、文化9年(1812)再建という。銘文は正面に「左相州道 大山道」、左側面に「右富士世田谷・ 登戸道」、右側面に「此方二子道」、背面に建立、再建年が刻まれている。なお相州道、二子道はほぼ現在の玉川通りに相当する。

(この項つづく)



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